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みやこたまち
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陰花寺異聞(同人坩堝撫子1)

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 雨宿りの山門で、雨垂れに向かって左右の拳を内角に抉るように打つべし、打つべしと気合の入った女導師と軒先の縁を結んだ。
「どこからですか?」
「各務原。よくカクムハラって読まれるけどじつはカガミハラなんだっていうとわりと驚かれる難解地名本州編ベスト20には必ず入ってる、あの各務原なんだけど、ご存じ?」
「なるほど。そんなに遠いところじゃありませんね。僕は三方原ですから」
「残念。関ケ原じゃないんだ。やっぱり何とかケ原なら関ケ原よね。メジャーだもの」
 僕は決して歴史が好きな方ではなく、だから、歴史探訪らしい彼女の話し相手としては不足なのが申し訳ないと思いつつ、そのことをいつ告白しようか、それとも適当に話しを合わせていけるところまで行ってしまったほうがいいだろうかなどと思案していた。雨はそのどちらとも決めかねる程度に降り続いている。
「何かの研究ですか?」
「そう見える? まあ、似たようなものかしら。不真面目なんだけど、欲望の赴くままにってところ。あなたは? こんな里山にぶらりと一人旅っていう風情だけど、ディスカバージャパン派? それともチャレンジ2万キロ系かな?」
 彼女は僕より年上だろうか、今度はそんなことが気になりはじめた。人見知りしないさっぱりした物言いは、雨宿りの友としては申し分がない。もちろん、雨を抜きにした友としてだって、文句があるはずはない。
「懐かしいですね。でもディスカバージャパンは、経験してないんです。チャレンジ2万キロの頃は小学生でした。でもどちらかというと僕は切手少年でしたから」
 彼女はちょっと半身になる。青きベレーに黒髪余る、なんて句が唐突に浮かんでくる。長い睫毛が微かに震えるところは、その下の大きな瞳がついに決壊間近か!? と危惧されたりもする。見た目には16歳から35歳までのどれにでも当てはまりそうな面立ちだ。もちろん、肌目の細かさを天眼鏡で観察すれば角質年齢から本性が知れるというものだろうが、こうして知り合えた偶然の、重箱の隅をつついて蛇を出すこともないだろうと、そのあたりは俄然、草枕的な心境になってくる。
「だからですね、僕がいましていることは時代の懐かしさに根ざしているということではなくて、どちらかというと個人的な懐かしさに根ざしているというような感覚で…」
 僕が照れて語尾を濁すと、彼女はぱっと顔を上げた。肩を少し下るくらいの長さでたゆとうていた髪が一斉に跳ね、雨の匂いにシャンプーの香が混じる。そして低い位置から右のアッパーカットが見事に決まり、雨垂れが弾けて彼女の顔に飛沫がかかる。剥き卵を逆さにしたような輪郭と肌つやが、分厚い雲の隙間から漏れ出る初夏の日差しを集めて輝きを増した。三十代では無いなと、直観する。となると年下だ。彼女は軽やかに足を使いはじめた。
「それじゃ、何? もしかして、傷心旅行? 傷心旅行なんて久しぶりに聞いたわ。でも嬉しくなっちゃうな。同道二人ってわけだ。この陰花寺が懸想黄泉路第二六番札所と、知ってる人が他にもいたなんて、よくやったっ。感動したっ」
 細身の体に白のトレーナーをブカブカと着て、スリムジーンズにオレンジ色のスニーカーを履いた彼女は、先程から片時も休まずに1・2・1・2と、雨垂れを速いジャブで的確にヒットしていたのだが、その勢いのまま、すっと体をこちらむきにしたかと思う間もなく、舞うようなフットワークでたちまち間合いを詰めて来て、ニヤニヤとわらいながら、私にボディブローを何発も入れてきた。親愛の情なのだろう。なのだろうが一発一発が相応重い。私はたまらず体を曲げてガードを固める。
「目はまだ死んでないな。傷心なんていって、まだ未練たらたらなんでしょう」
 頭が下がったところで、彼女は左右のフックを織りまぜ始めた。上下を打ち分ける彼女のテクニックになんとか対応しながらも、私は「このままでは、やられる」と本能的に悟っていた。なんとか、ペースを取り戻さなければジリ貧だ。
「会うが別れの初めなら、別れは愛の初めじゃないですか。偶然偶然。君がいまここにいるってことが、君にとっての必然なのだとしても、僕がここにいるのは全くの偶然だった。陰花寺懸想黄泉路第二六番札所か何か知りませんけど、ここで君と会うために、僕はここに導かれてきたのだとしたら、この先、君と僕とは同じ遍路を辿らなけりゃ嘘だ。未練、未練というのなら、君がここに来た事だって未練に違いないのでしょう。君は知っていてここに来た。僕は知らずにここにいる。でもそれはみんな過去の話なんだ。振り向くな、振り向くな。後ろには道が無い。人生はワンツーパンチ。汗かきべそかき楽あり苦あり。くじけりゃ誰かが先に行く…」
 打ち疲れか、それとも僕の攪乱が功を奏したのか、彼女の連打に隙が生じた。私は一度ダッキングしてから彼女の懐にもぐり込み、そのままクリンチした。彼女の頬は濡れていた。汗か雨かは定かでない。彼女はもがきながらコツコツと左右の脇腹を叩いていたが、私が体重を預けるとさすがに苦しくなったのか、手を背中に回してぎゅっと体を密着させてきた。荒い息づかいと速い鼓動が、二人の中で溶け合った。判り会えたような気がした。二人きりの世界に雨だけが降っている。孤独な二人の求めるものが例え傷のなめあいだったとしても、それが、みっともない、なんて誰にも言わせない。
「ブレイクブレイク」
 頃合いを見て僕は両手を広げた。しかし、彼女はまだきつく僕を抱きしめている。そっと覗きこむと彼女は顔を真っ赤にして震えていた。やはり、強がっていたんだな、と僕は彼女がいとおしくなり、優しく髪を撫でてやろうとした。彼女はまだ僕をぎゅっと抱きしめている。抱きしめて… 強く強く抱きしめて……
 僕はまだまだアマチュアだったのだ。すでに警戒を解いていた僕の体は棒立ちだった。彼女はさらに顔を真っ赤にして僕の胴を、締め上げた。抱きしめる、なんてものではない。体こそ持ち上がってはいないが、明らかにこれはベアハックである。息が詰まってきた。彼女の声が胸骨にこだまする。まるで自分の体の中から響いてくるようだ。
「呼吸をしないと生きていけないでしょう。人は呼吸をするように恋愛をしていないと生きていけないの。分かる? 恋愛の苦しさが今のあなたの苦しさなの。分かるでしょ。胸がしめつけられるみたいに苦しくて、息を吸うことすらままならない。なのに呼吸しないといけないの。そうしないと、死んじゃう。息を吐く時、私たちはなんて無防備なんでしょう。今度いつちゃんと息を吸えるか分からないのに吐いちゃう。吸う息も吐く息も片一方だけじゃだめでしょう。恋愛は呼吸なの。そうして圧迫なの。苦しくなったら、死ぬしかない。でも死ねないでしょ。息、吸いたくなっちゃうよね。でもそれは何のためなのかあなたには分からないでしょ。だから、分からせてあげる」