連載小説「六連星(むつらぼし)」 第11話~第15話
足尾で煙害のきざしが現われてきたのは、明治18年頃からだ。
銅の産出量が4,000トンを越えた頃から、症状はさらに顕著になった。
山が荒れ、植物があちこちで枯れ始めた。
これに拍車をかけたのが、明治20年、4月8日に起きた松木村の大火だ。
おりからの強風にあおられて、松木・仁田元・久蔵の集落から、さらに
赤倉・間藤・田元付近までの広範囲にわたり、山林や家屋などが
相次いで焼失した。
このため足尾の周辺に、大きな荒れ地が出現をした。
さらに年とともに増大する煙害のため、周囲の幼木が生育出来なくなった。
山地の荒廃は年とともに進み、やがて一帯の草木がいっさい生えなくなり、
さらに裸地に変わっていった。
その頃に廃村になった村の記録が残っている。
それによれば、村木村における煙害は養蚕業を中心に、
明治18年頃から始まり、21年に桑の木が全滅したと記されている。
翌22年には養蚕が廃止になり、他の農作物も明治33年までに無収穫となり、
馬も、毒草を食べて死亡したと記されている。
明治25年当時。戸数40戸、人口270名だったものが明治33年には、
戸数30戸、人口174名に激減した。
その翌年。1戸を残して全員が松木村を去り、明治35年に廃村となっている。
煙害対策がはじまったのは、明治30年。
この年にはじめて、政府から鉱毒予防命令が出る。
被害を食い止めるためのいろいろな方法が、試みられることになる。
脱硫塔の建設もされたが、煙害の除去に、いずれもあまり
効果があがらなかった。
いっぽうで銅の産出量は、第一次世界大戦とともに急増をする。
その結果、煙害はますますひどいものになる。
見舞金の支払いや、激害地の山林およそ1,000㌶などを買い取られるが
根本的な対策は一向にすすまない。
昭和31年に自熔製錬法が導入されて、硫酸を取り除くことが
できるようになるまで、足尾の煙害は、延々と続いていく。
「一世紀の間は、草木も生えず駄目だろうと言う学説もある。
だが長年植えてきた甲斐もあり、下の方からだんだんと緑が甦って来た。
しかし、ここにきて思わぬ敵が出現をした
保護条例で増えすぎた鹿たちが、日光の山に溢れてきためだ。
植えたばかりの若木や新芽を、増えすぎた鹿たちが食糧にしはじめた。
まったくもっての予想外の展開だ。
駆除するわけにもいかないし、困ったもんだ。
しかし、鹿が足尾にやってくるということは、裏を返せば足尾の山が、
復活のきざしを見せ始めたということにもなる。
そうだ。言い忘れたが、実はあの不良の岡本も参加をしているんだぜ。
もちろん身分を隠しての参加だが、心意気は充分に評価が出来る」
「へぇ・・・・
岡本のおっちゃんも、ただの不良じゃないんね。
なかなかやるわね、味なもんだ。見上げた不良だわねぇ・・・・」
足尾の街を左に見下ろして、ぐるりと最深部まで回り込んだ122号線は、
町中を抜けてきた旧道と合流してから、この山道の最大の難所でもある
日足(にっそく)峠に向けて、右折をする。
だらだらと続く登り坂を15分ほどいくと、全長2700mの
日足トンネルが現れる。
トンネルを抜けると今度は、日光への長い下りがはじまる。
2キロ余りの下り坂が終わると、いろは坂へ続く国道120号と交差をする。
右へ曲がればその先には、徳川家康が祀られている東照宮のある
日光の市街地へ出る。
左に曲がればいろは坂を経由して、中禅寺湖畔と奥日光方面へ行ける。
俊彦の車はそのまま交差点を直進して、ここから数分ほどの距離に有る
日帰り温泉施設「やしおの湯」をめざして、さらにひた走る。
作品名:連載小説「六連星(むつらぼし)」 第11話~第15話 作家名:落合順平