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連載小説「六連星(むつらぼし)」 第11話~第15話

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 「足尾銅山鉱毒問題が、初めて国会でとりあげられたのは、
 明治24(1891)年12月25日の、田中正造の質問からでしょう。
 『とに角、群馬・栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は、
 足尾銅山から流れて、両沿岸の田畑1,200余町の広い地面に鉱毒を
 及ぼし、2年も3年も収穫が無かったのである。
 特に明治23年という年は、1粒もコメが実らない。
 実らないのみならず、植物が生えないのである。
 去る明治21年より、現今に至り毒気はいよいよその度を加え、
 被害をますます大きなものにしている』
 と、そのときの鉱毒被害の様子も指摘しているわ。
 この時の農民たちの必死の訴えを、国は承知の上ですべて無視をした。
 このあと明治34年に田中正造が衆議院議員を辞職までの11年間、
 質問書や演説、その他の発言の320件のうち、足尾の鉱毒問題関係が、
 実に、半数以上を超えているのよね・・・・」

 「驚いたな。その通りだ。どこでそんなに勉強をしてきたの」


 「全部、お母さんからの受け売りです。
 話としては知ってたけど、ここがその川だということを、
 たった今知りました」

 「田中正造の活躍もあり、明治29年に足尾の銅山主である古河市兵衛と、
 ようやくのことで、示談契約が交わされた。
 栃木と群馬の両県で、鉱毒被害にかかわった43か町村が示談契約を結んだ。
 しかし明治29年7月と、9月の2回、渡良瀬川が氾濫を起こす。
 特に9月8日の大雨と大洪水は、古今でも無例というほどの氾濫になった。
 渡良瀬川の下流沿岸一帯に、きわめて大量の鉱毒を押し流した。
 被害の大きさから、社会問題として再び注目を集めることになった。
 鉱毒事件の局面が、ここから大きく転換をはじめる。
 鉱毒問題の解決を示談という方法ではなく、銅の生産そのものを止めさせる、
 足尾銅山鉱業の停止を目標とした沿岸住民の大運動が、大同団結をする。
 明治29(1896)年10月5日。渡良瀬村(現館林市)の雲龍寺で
 群馬と栃木の両県による「鉱毒事務所」が設立される。
 おおくの同士たちが集まり、精神的な契約書「雲龍寺の連判状」を結び、
 組織作りが、ここからいっきに活発化する。

 こうした動きを背景に、請願や陳情運動も高まりをみせる。
 国会への請願陳情の運動も1次・2次・3次としだいに活発化を呈してくる。
 明治33(1900)年2月13日の第4次請願陳情運動において、
 ついに権力と真っ向から衝突する、川俣事件をうむことになる」


 「川俣事件?。へぇぇ、初めて聞きます」


 「近代日本における、最初の公害闘争だ。
 明治33(1900)年2月13日。足尾銅山の鉱毒問題を解決するために、
 2千5百名余の被害民たちが、決死の覚悟で、
 第4回目の東京大挙押出し(請願)の行動を決行した。
 雲龍寺(現館林市)に集結した被害民たちは、朝9時頃同寺を出発し
 東京へ向かった。
 途中で警察官たちと小競り合いを演じながら、正午頃には
 佐貫村大佐貫(現・群馬県邑楽郡明和村)に到着した。
 2台の大八車を先頭に、さらに利根川に向かって前進をした。
 川の手前、同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)に
 さしかかったところで、
 待ちうけていた3百余名の警官と憲兵が、被害民たちに襲い掛かってきた。
 圧倒的な暴力で群衆を蹴散らし、多くの犠牲者を出して行列は四散した。
 この事件で、被害民15名がその日のうちに捕縛されている。
 さらに翌日以降の捜査で、100余名が逮捕された。
 このうち51名が、兇徒聚衆罪で起訴をされている。
 民衆が、権力と初めて闘った公害闘争の記録、それが川俣事件だ」