剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
* * *
ロンドン郊外にあるサンライズホテルは、超一流とまではいかないまでも、決して二流ではない。そんなホテルだった。
ただ残念なことに、それは過去形で語られる。
ホテルオーナーの代替わりと同時に行われた改築工事によって、ホテルの雰囲気はガラリと変わってしまった。新旧の調和・融合を目指したものであった改築工事は、予算の関係で大幅な変更を余儀なくされ、その結果として見事なまでに中途半端な仕上がりとなってしまった。年内には二流以下に格下げされるだろう。
しかし、単純な施設設備の面では、一流を維持している。
二十五階建ての屋上にはヘリポートが設置され、最上階のスイートルームでは、少し離れているものの、ロンドンの夜景を一望できる。一階の一部と地下一階にある会員制のフィットネスクラブは、室内プールを備えた一級の施設であることに変わりはなく、宿泊以外の目的で訪れる利用者も多い。
「でも、あまりいい雰囲気とは言えないわね」
佐佑とクローディアは、八階にあるレストランの一席に腰を落ち着けて、一級品とは呼びにくいワインでの乾杯を終えたところだった。二人はワインがあまり好きではないという共通点を持っている。
運ばれてくる料理は、新たな感動を与えてくれるような代物ではなかったが、途中で食べ飽きることもなかった。
「日が悪かったみたいだな」
佐佑は先の尖ったナイフを小さく振り、自身の背面、レストランの一番奥にあるVIP席を指し示す。
「見たことある顔だわ」
VIP席では恰幅のよい体型をした男が、数名の着飾った男女と共に食事をしていた。
「ジョーンズ議員だ」
佐佑は鶏肉を一口サイズに切り分けている。音一つ立てずに鮮やかに滑るように切り分けられるのは、ナイフや料理に使われている肉が上等だからではない。
「どうしてこんなところで?」
「さぁな」
一通り鶏肉を切り終えた佐佑は、ナイフを置いて中身が半分ほど残っているワイングラスを手に取った。それに合わせて、クローディアもグラスを口に運ぶ。
「SPがいるからこんなに物々しいのね。本当に日が悪かったみたい」
店内を見渡せば、黒いスーツ姿の男女が不自然に多いことが分かる。それらの黒服のテーブルには、一切の料理が運び込まれていない。
「……ねぇ、サユウ」
「なんだ?」
「嫌な予感がしてきたわ」
「奇遇だな、俺もだ」
ワイングラスからフォークへと持ち替えた佐佑は、上目遣いにクローディアを見て、にやりと笑う。
「まさかあなた、知っていたんじゃないでしょうね?」
眉をひそめたクローディアは、身を乗り出して佐佑を問い詰めた。
「知っていたら、大事な恋人であるキミを連れて来たりはしないさ」
嫌味になるかならないかのギリギリを突くことにおいて、佐佑はその才能を余すことなく発揮する。
「どうだか。あなたはそういうことを平気でやる人だもの」
「あーー あのときのことか」
思い当たることがあるのか、視線を逸らした佐佑は、フォークをくるくると回して何度も宙に円を描いた。クローディアが呆れ果てたため息を漏らすと同時に、何かに気付いたように佐佑のその動きがピタリと止まる。
「多分、このフォークがトリガーだ」
「だったら、そのフォークは使わないで頂戴」
「それは無理な相談だな」
「どうしてよ?」
「俺は腹が減っている」
佐佑は皿の上で切り分けられた鶏肉の一つに、ぶすり、とフォークを差し込んだ。
「全員、動くな!!」
突然発せられた怒号に続いて、雷鳴のような銃声がレストランのフロア中に響き渡った。
「今日は厄日か」
数発ほど発射された銃弾は、威嚇のために天井や壁に向けて発砲したものであったため、傷を負った者はいないようだった。
佐佑は素早くテーブルの下に隠れながらも、フォークに刺さった鶏肉を口に放り込むことは忘れない。
「銃は持ってないの!?」
「デートのときに持ってくると怒るじゃないか」
「もう! 役立たず!」
鶏肉をしっかりと堪能した佐佑は、クローディアの背中を叩いた。
「ほらほら、壁際まで退避するぞ」
頭上では既に銃撃戦が始まっていた。
床を這って壁際に退避した二人は、一般客に混じって状況を見守る。
「ってサユウ、何してるの?」
佐佑は、テーブル上に取り残された料理の救出に全力を注いでいた。勿論、退避先は佐佑の胃袋の中だ。
「日本では“火事場泥棒”と呼ぶのだが」
「あなたって人は……」
クローディアは、嬉々として料理を口に放り込む佐佑の横顔に、状況の説明を求める抗議の視線を送り続けていた。
その視線に気付いた佐佑は、口の中にある咀嚼物をワインで流し込んだあと、にっと白い歯を見せて笑った。
「空砲だよ、あれ」
「え?」
「着弾の音が足りない上に、明らかに店への被害が少ない」
「そうなの?」
「見たところ、実弾を撃っているのは襲撃者側に二人、SP側に二人。そいつらが打つ瞬間だけはきっちりと隠れてる。映画撮影用の玩具か、それ用に改造した物を使っているのだろう。パニック状態の素人なら誤魔化せるだろうが、俺には通用しない」
「うそ……」
「議員が一枚噛んでいるのかどうかが問題だが……見てろ、このあとSP全員が死んだフリをする。それからここの客は、人質とするために場所を移されるだろう。下の階にあったホールだろうな。ヘリポートがあるとはいえ、素人が上に逃げるとは思えない」
「SPの死体が消えていることを隠すためね?」
「正解。死んだフリをしていたSPは、こっそり合流するって寸法だ」
その会話の最中にも、SPが一人、また一人と倒れていった。
「なんでこんな芝居を?」
そこで銃声が止む。
「大人しくしていれば危害は加えない」
覆面を被ったテロリストが、悠々とした足取りでVIP席へ向かう。
「是非とも知りたいね」
佐佑はきょろきょろと落ち着きなく頭を振って周りを見渡し、まだ生き残っている料理皿へと向かって匍匐前進を始めた。
程なく、堂々とした足取りのジョーンズ議員が姿を現した。
「私を誰だと思っている! こんなことをしてただで済むと思うな!」
よく通るバリトンボイスがフロアに響き渡る。
「ハムアクター(大根役者)」
クローディアはため息混じりにそう漏らした。
「同感だ。ミスター・ジョーンズには演技指導が必要みたいだな」
料理の救出を終えて戻ってきた佐佑の口元には、正体不明のソースが付着していた。クローディアは“ソースが付いているわよ”というジェスチャーで佐佑を迎える。
「あなた、本当に知らなかったんでしょうね?」
「無論だ」
そう答えた佐佑の額には、不快を示す皺が刻まれていた。
「あんなに不味いとは思わなかった。わざわざ這って行ったのに!」
最早、クローディアの口からはため息しか零れない。
ロンドン郊外にあるサンライズホテルは、超一流とまではいかないまでも、決して二流ではない。そんなホテルだった。
ただ残念なことに、それは過去形で語られる。
ホテルオーナーの代替わりと同時に行われた改築工事によって、ホテルの雰囲気はガラリと変わってしまった。新旧の調和・融合を目指したものであった改築工事は、予算の関係で大幅な変更を余儀なくされ、その結果として見事なまでに中途半端な仕上がりとなってしまった。年内には二流以下に格下げされるだろう。
しかし、単純な施設設備の面では、一流を維持している。
二十五階建ての屋上にはヘリポートが設置され、最上階のスイートルームでは、少し離れているものの、ロンドンの夜景を一望できる。一階の一部と地下一階にある会員制のフィットネスクラブは、室内プールを備えた一級の施設であることに変わりはなく、宿泊以外の目的で訪れる利用者も多い。
「でも、あまりいい雰囲気とは言えないわね」
佐佑とクローディアは、八階にあるレストランの一席に腰を落ち着けて、一級品とは呼びにくいワインでの乾杯を終えたところだった。二人はワインがあまり好きではないという共通点を持っている。
運ばれてくる料理は、新たな感動を与えてくれるような代物ではなかったが、途中で食べ飽きることもなかった。
「日が悪かったみたいだな」
佐佑は先の尖ったナイフを小さく振り、自身の背面、レストランの一番奥にあるVIP席を指し示す。
「見たことある顔だわ」
VIP席では恰幅のよい体型をした男が、数名の着飾った男女と共に食事をしていた。
「ジョーンズ議員だ」
佐佑は鶏肉を一口サイズに切り分けている。音一つ立てずに鮮やかに滑るように切り分けられるのは、ナイフや料理に使われている肉が上等だからではない。
「どうしてこんなところで?」
「さぁな」
一通り鶏肉を切り終えた佐佑は、ナイフを置いて中身が半分ほど残っているワイングラスを手に取った。それに合わせて、クローディアもグラスを口に運ぶ。
「SPがいるからこんなに物々しいのね。本当に日が悪かったみたい」
店内を見渡せば、黒いスーツ姿の男女が不自然に多いことが分かる。それらの黒服のテーブルには、一切の料理が運び込まれていない。
「……ねぇ、サユウ」
「なんだ?」
「嫌な予感がしてきたわ」
「奇遇だな、俺もだ」
ワイングラスからフォークへと持ち替えた佐佑は、上目遣いにクローディアを見て、にやりと笑う。
「まさかあなた、知っていたんじゃないでしょうね?」
眉をひそめたクローディアは、身を乗り出して佐佑を問い詰めた。
「知っていたら、大事な恋人であるキミを連れて来たりはしないさ」
嫌味になるかならないかのギリギリを突くことにおいて、佐佑はその才能を余すことなく発揮する。
「どうだか。あなたはそういうことを平気でやる人だもの」
「あーー あのときのことか」
思い当たることがあるのか、視線を逸らした佐佑は、フォークをくるくると回して何度も宙に円を描いた。クローディアが呆れ果てたため息を漏らすと同時に、何かに気付いたように佐佑のその動きがピタリと止まる。
「多分、このフォークがトリガーだ」
「だったら、そのフォークは使わないで頂戴」
「それは無理な相談だな」
「どうしてよ?」
「俺は腹が減っている」
佐佑は皿の上で切り分けられた鶏肉の一つに、ぶすり、とフォークを差し込んだ。
「全員、動くな!!」
突然発せられた怒号に続いて、雷鳴のような銃声がレストランのフロア中に響き渡った。
「今日は厄日か」
数発ほど発射された銃弾は、威嚇のために天井や壁に向けて発砲したものであったため、傷を負った者はいないようだった。
佐佑は素早くテーブルの下に隠れながらも、フォークに刺さった鶏肉を口に放り込むことは忘れない。
「銃は持ってないの!?」
「デートのときに持ってくると怒るじゃないか」
「もう! 役立たず!」
鶏肉をしっかりと堪能した佐佑は、クローディアの背中を叩いた。
「ほらほら、壁際まで退避するぞ」
頭上では既に銃撃戦が始まっていた。
床を這って壁際に退避した二人は、一般客に混じって状況を見守る。
「ってサユウ、何してるの?」
佐佑は、テーブル上に取り残された料理の救出に全力を注いでいた。勿論、退避先は佐佑の胃袋の中だ。
「日本では“火事場泥棒”と呼ぶのだが」
「あなたって人は……」
クローディアは、嬉々として料理を口に放り込む佐佑の横顔に、状況の説明を求める抗議の視線を送り続けていた。
その視線に気付いた佐佑は、口の中にある咀嚼物をワインで流し込んだあと、にっと白い歯を見せて笑った。
「空砲だよ、あれ」
「え?」
「着弾の音が足りない上に、明らかに店への被害が少ない」
「そうなの?」
「見たところ、実弾を撃っているのは襲撃者側に二人、SP側に二人。そいつらが打つ瞬間だけはきっちりと隠れてる。映画撮影用の玩具か、それ用に改造した物を使っているのだろう。パニック状態の素人なら誤魔化せるだろうが、俺には通用しない」
「うそ……」
「議員が一枚噛んでいるのかどうかが問題だが……見てろ、このあとSP全員が死んだフリをする。それからここの客は、人質とするために場所を移されるだろう。下の階にあったホールだろうな。ヘリポートがあるとはいえ、素人が上に逃げるとは思えない」
「SPの死体が消えていることを隠すためね?」
「正解。死んだフリをしていたSPは、こっそり合流するって寸法だ」
その会話の最中にも、SPが一人、また一人と倒れていった。
「なんでこんな芝居を?」
そこで銃声が止む。
「大人しくしていれば危害は加えない」
覆面を被ったテロリストが、悠々とした足取りでVIP席へ向かう。
「是非とも知りたいね」
佐佑はきょろきょろと落ち着きなく頭を振って周りを見渡し、まだ生き残っている料理皿へと向かって匍匐前進を始めた。
程なく、堂々とした足取りのジョーンズ議員が姿を現した。
「私を誰だと思っている! こんなことをしてただで済むと思うな!」
よく通るバリトンボイスがフロアに響き渡る。
「ハムアクター(大根役者)」
クローディアはため息混じりにそう漏らした。
「同感だ。ミスター・ジョーンズには演技指導が必要みたいだな」
料理の救出を終えて戻ってきた佐佑の口元には、正体不明のソースが付着していた。クローディアは“ソースが付いているわよ”というジェスチャーで佐佑を迎える。
「あなた、本当に知らなかったんでしょうね?」
「無論だ」
そう答えた佐佑の額には、不快を示す皺が刻まれていた。
「あんなに不味いとは思わなかった。わざわざ這って行ったのに!」
最早、クローディアの口からはため息しか零れない。
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近