剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
* * *
ロンドンを貫くテムズ河に沿って上流へと遡り、人里からも離れて道路の舗装がやや荒くなった頃、車道の対岸に視線を流すことで広い川原が見える。そこから更に上流へと車を走らせると、車一台がやっと通れるほどの幅しかない古い橋に差し掛かる。
佐佑はその橋を渡り終えたところに車を止めた。
「さっき対岸に川原が見えただろう? あそこが指定された場所だ」
「“決闘跡地”か」
「ここから歩いて行くしかない。ここで待つか、道を戻って対岸で待つか、好きな方を選べ」
「では対岸で見物させてもらう」
スコットを見送った佐佑は、戦いの準備を始めた。
一度全裸になり、黒一色のラバースーツで身を包み、黒髪を解いて再び結い直す。身体にぴったりとフィットしているラバースーツは、それだけで耐電、耐寒、耐火、耐衝撃性に優れた逸品であり、激戦を潜り抜けた歴戦の友だ。欠点としては、通気が悪く蒸れてしまうために、長時間装着していると体臭が大惨事になってしまうことだろう。
ラバースーツの上から、迷彩柄ではない暗い緑色のアーミーパンツを穿き、足元には軍用の分厚いブーツを履く。
破魔刀・柳風を鞘から抜き、確かめるように一振りする。宙に青白く残った刀身の残像が、その刀に破魔の力が宿っている証拠だ。
刀身が六〇センチ程度の柳風は、小太刀に分類されている。
すべての準備を終えた佐佑は、最後に一枚の札を車のフロントガラスに貼り、短い呪を唱えた。それにより、この車を見た者の頭から、車の存在を意識の外に押し出しすことができる。
ここに車が止まっていることを知っている者に対しては、一切効果が得られないのだが、知らない者は落下した荷物を避けるように、無意識に避けて通るようになる。
佐佑が今夜クローディアと食事の約束をしたのは、必ず生きて戻る、という決意の表れだったのだが、もう一時間ほど遅らせておけば良かったと後悔していた。
「言われた通りに来たぞ。次の予定が迫っている、早く済ませてくれ」
川原に到着した佐佑は、川に背を向けて声を張り上げた。火の魔物である相手が川に潜んでいることは、まずありえない、と踏んでの行動だ。
辺りは不気味な静けさに包まれ、妖どころか動物の気配すらもない。
月はまだ沈んでいない。
佐佑は、一瞬脳裏に浮かんだ策謀を、すぐさま打ち捨てた。佐佑一人をロンドンから遠ざけたところで、どうなるものでもない。ならば、やはり佐佑本人に用があると考える方が自然だからだ。確実に仕留めるために呼び出した、という考えが揺らぐことはない。
佐佑は周囲に気を飛ばし、再び慎重に様子を探った。
「……三匹」
佐佑はそう呟くのと同時に、右腰の後に手を伸ばす。そこにあるのは破魔刀・柳風の柄だ。
空と川と森。
その三方から同時に姿を表した何者かの影は、明らかに人の形ではなく、且つ、自然界に存在し得ない大きさをしてた。
鳥と蛇と獣。それらは一斉に襲い掛かる。
佐佑は、瞬時に一番早い相手を見極めると、順に刀を振るった。
右逆手に持った刀を右から左へと振り、鳥の頭を上下に切り裂く。左順手に持ち替え、下から切り上げて、蛇の頭と胴を分断。その勢いのまま背後を振り向き、大上段からの振り下ろしによって、獣の頭を真っ二つに割った。
川原に転がった蛇の頭が、話が違う、と言い残して塵になる。他の二体もそれと同じく、砂とも灰ともつかぬ塵となった。
「見事だ、グラディウス!」
川の向こうから聞こえてきた賞賛の声は、スコットが発したものだ。
「もう少し役に立つと思っていたが」
「黒幕は貴様か」
佐佑は刀を鞘に戻し、聞こえてきた声の方向を睨んだ。
「おお怖い、そんな顔するな」
おどけた口調からは、得体の知れぬ余裕が見え隠れしていた。
それもそのはず、広い川原には身を隠す場所がなく、佐佑はスコットの正確な位置を掴めていない。幅十メートルに近い川を無事に渡リ切ったとしても、スコットがいる山間道路は、頭上三メートルにある。
加えて言うならば、スコットは暗視装置を付けたスナイパーライフルで、佐佑の急所に狙いを付けている。
そんな絶対的優位な状況であれば、自然と声に余裕が宿る。
「イングウェイ・マーカスを知っているか?」
問い掛けてくる声だけでは、位置の特定は難しい。スコットもプロだ。声の反響を操る方法ならば、熟知している。
「あぁ、知っている」
佐佑は時間を稼ぐために会話を続ける。
「英国が誇る炎術士。世界一と言われた男だ。残念ながら面識はないが」
イングウェイ・マーカスは、その炎術において右に出る者なしと言われた、元CMUのエージェントだ。老齢によって第一線を退いたのち、ロンドンを離れてエディンバラに移り、後進の教育に力を注いでいたのだが、丁度一年前、佐佑の渡英直後に老衰で亡くなっている。
「そう、私の先生だ。私は先生の下で誰よりも修行に励み、誰よりも力をつけた。先生も私を一番弟子だと認めてくれたよ。……ところが、だ」
沈黙の合間を縫うように、ザァ、と一陣の風が吹き抜ける。
「あのジジイは秘術を教えないとぬかしやがった! 更には、お前に会いたいと言い出しやがった。あの東洋人になら、秘術を伝授できるかもしれん、なんてぬかしやがった! 一番弟子である私に向かって!」
「それで俺を狙ったのか」
「いいや、お前には関係ない話だ。見る目が無かったのはジジイだ」
「イングウェイ・マーカスを殺したのか!?」
「それは想像にお任せする。残すは、私が勝っていることを証明するだけだ」
「無益な……。誰に対しての証明だ。亡きイングウェイは、こんなことで認めはしない」
「ジジイのことはもういい。私がジジイに勝っていたことは、既に証明されているのだからな」
「ではなぜ俺を?」
「お前は私の大事なものを奪った」
「大事なもの?」
「お前は生意気にも、我々が手を焼いているミラビリスを殺りに来た。すぐに帰ると思って放っておけば、いつまでも居座り続けた。東洋人は目障りで傍にいるだけで不愉快だ。お前を追い返すためにミラビリスの偽物を造ってそれを倒させた。それでもまだ帰らねぇ! どいつもこいつもお前ばかり評価しやがる! 何でだ!? 上層部にケツでも差し出したんじゃねぇのか!? 東洋人!」
「ただの逆恨みか」
「お前がいなければ、すべて私のものだったんだ! お前が来なければ! ジジイの秘術も! クローディアも!」
月が完全に沈んだ闇夜を、星の光が頼りなく照らす。
川のせせらぎ、フクロウの声、昆虫の唄。それらすべてを一瞬で塗り潰す黒い感情が爆発する。
「あの世でイングウェイに謝ってこい」
「邪魔なんだよ! オマエ!!」
引き鉄に掛けられた指が引かれ、銃口より放たれた銃弾は真っ直ぐに佐佑の頭へと向かう。銃声は森と山とに遠くまで木霊し、驚いた鳥達が何も見えぬであろう星明りの夜空へと飛び立った。
隠されることのない剥き出しの殺気は、佐佑にスコットの居場所を正確に教えた。場所さえ判明していれば、一発の銃弾を避けるのは佐佑にとってそう難しいことではない。
「草薙佐佑、参る!」
星明りの闇夜に、青い残像の光が走った。
ロンドンを貫くテムズ河に沿って上流へと遡り、人里からも離れて道路の舗装がやや荒くなった頃、車道の対岸に視線を流すことで広い川原が見える。そこから更に上流へと車を走らせると、車一台がやっと通れるほどの幅しかない古い橋に差し掛かる。
佐佑はその橋を渡り終えたところに車を止めた。
「さっき対岸に川原が見えただろう? あそこが指定された場所だ」
「“決闘跡地”か」
「ここから歩いて行くしかない。ここで待つか、道を戻って対岸で待つか、好きな方を選べ」
「では対岸で見物させてもらう」
スコットを見送った佐佑は、戦いの準備を始めた。
一度全裸になり、黒一色のラバースーツで身を包み、黒髪を解いて再び結い直す。身体にぴったりとフィットしているラバースーツは、それだけで耐電、耐寒、耐火、耐衝撃性に優れた逸品であり、激戦を潜り抜けた歴戦の友だ。欠点としては、通気が悪く蒸れてしまうために、長時間装着していると体臭が大惨事になってしまうことだろう。
ラバースーツの上から、迷彩柄ではない暗い緑色のアーミーパンツを穿き、足元には軍用の分厚いブーツを履く。
破魔刀・柳風を鞘から抜き、確かめるように一振りする。宙に青白く残った刀身の残像が、その刀に破魔の力が宿っている証拠だ。
刀身が六〇センチ程度の柳風は、小太刀に分類されている。
すべての準備を終えた佐佑は、最後に一枚の札を車のフロントガラスに貼り、短い呪を唱えた。それにより、この車を見た者の頭から、車の存在を意識の外に押し出しすことができる。
ここに車が止まっていることを知っている者に対しては、一切効果が得られないのだが、知らない者は落下した荷物を避けるように、無意識に避けて通るようになる。
佐佑が今夜クローディアと食事の約束をしたのは、必ず生きて戻る、という決意の表れだったのだが、もう一時間ほど遅らせておけば良かったと後悔していた。
「言われた通りに来たぞ。次の予定が迫っている、早く済ませてくれ」
川原に到着した佐佑は、川に背を向けて声を張り上げた。火の魔物である相手が川に潜んでいることは、まずありえない、と踏んでの行動だ。
辺りは不気味な静けさに包まれ、妖どころか動物の気配すらもない。
月はまだ沈んでいない。
佐佑は、一瞬脳裏に浮かんだ策謀を、すぐさま打ち捨てた。佐佑一人をロンドンから遠ざけたところで、どうなるものでもない。ならば、やはり佐佑本人に用があると考える方が自然だからだ。確実に仕留めるために呼び出した、という考えが揺らぐことはない。
佐佑は周囲に気を飛ばし、再び慎重に様子を探った。
「……三匹」
佐佑はそう呟くのと同時に、右腰の後に手を伸ばす。そこにあるのは破魔刀・柳風の柄だ。
空と川と森。
その三方から同時に姿を表した何者かの影は、明らかに人の形ではなく、且つ、自然界に存在し得ない大きさをしてた。
鳥と蛇と獣。それらは一斉に襲い掛かる。
佐佑は、瞬時に一番早い相手を見極めると、順に刀を振るった。
右逆手に持った刀を右から左へと振り、鳥の頭を上下に切り裂く。左順手に持ち替え、下から切り上げて、蛇の頭と胴を分断。その勢いのまま背後を振り向き、大上段からの振り下ろしによって、獣の頭を真っ二つに割った。
川原に転がった蛇の頭が、話が違う、と言い残して塵になる。他の二体もそれと同じく、砂とも灰ともつかぬ塵となった。
「見事だ、グラディウス!」
川の向こうから聞こえてきた賞賛の声は、スコットが発したものだ。
「もう少し役に立つと思っていたが」
「黒幕は貴様か」
佐佑は刀を鞘に戻し、聞こえてきた声の方向を睨んだ。
「おお怖い、そんな顔するな」
おどけた口調からは、得体の知れぬ余裕が見え隠れしていた。
それもそのはず、広い川原には身を隠す場所がなく、佐佑はスコットの正確な位置を掴めていない。幅十メートルに近い川を無事に渡リ切ったとしても、スコットがいる山間道路は、頭上三メートルにある。
加えて言うならば、スコットは暗視装置を付けたスナイパーライフルで、佐佑の急所に狙いを付けている。
そんな絶対的優位な状況であれば、自然と声に余裕が宿る。
「イングウェイ・マーカスを知っているか?」
問い掛けてくる声だけでは、位置の特定は難しい。スコットもプロだ。声の反響を操る方法ならば、熟知している。
「あぁ、知っている」
佐佑は時間を稼ぐために会話を続ける。
「英国が誇る炎術士。世界一と言われた男だ。残念ながら面識はないが」
イングウェイ・マーカスは、その炎術において右に出る者なしと言われた、元CMUのエージェントだ。老齢によって第一線を退いたのち、ロンドンを離れてエディンバラに移り、後進の教育に力を注いでいたのだが、丁度一年前、佐佑の渡英直後に老衰で亡くなっている。
「そう、私の先生だ。私は先生の下で誰よりも修行に励み、誰よりも力をつけた。先生も私を一番弟子だと認めてくれたよ。……ところが、だ」
沈黙の合間を縫うように、ザァ、と一陣の風が吹き抜ける。
「あのジジイは秘術を教えないとぬかしやがった! 更には、お前に会いたいと言い出しやがった。あの東洋人になら、秘術を伝授できるかもしれん、なんてぬかしやがった! 一番弟子である私に向かって!」
「それで俺を狙ったのか」
「いいや、お前には関係ない話だ。見る目が無かったのはジジイだ」
「イングウェイ・マーカスを殺したのか!?」
「それは想像にお任せする。残すは、私が勝っていることを証明するだけだ」
「無益な……。誰に対しての証明だ。亡きイングウェイは、こんなことで認めはしない」
「ジジイのことはもういい。私がジジイに勝っていたことは、既に証明されているのだからな」
「ではなぜ俺を?」
「お前は私の大事なものを奪った」
「大事なもの?」
「お前は生意気にも、我々が手を焼いているミラビリスを殺りに来た。すぐに帰ると思って放っておけば、いつまでも居座り続けた。東洋人は目障りで傍にいるだけで不愉快だ。お前を追い返すためにミラビリスの偽物を造ってそれを倒させた。それでもまだ帰らねぇ! どいつもこいつもお前ばかり評価しやがる! 何でだ!? 上層部にケツでも差し出したんじゃねぇのか!? 東洋人!」
「ただの逆恨みか」
「お前がいなければ、すべて私のものだったんだ! お前が来なければ! ジジイの秘術も! クローディアも!」
月が完全に沈んだ闇夜を、星の光が頼りなく照らす。
川のせせらぎ、フクロウの声、昆虫の唄。それらすべてを一瞬で塗り潰す黒い感情が爆発する。
「あの世でイングウェイに謝ってこい」
「邪魔なんだよ! オマエ!!」
引き鉄に掛けられた指が引かれ、銃口より放たれた銃弾は真っ直ぐに佐佑の頭へと向かう。銃声は森と山とに遠くまで木霊し、驚いた鳥達が何も見えぬであろう星明りの夜空へと飛び立った。
隠されることのない剥き出しの殺気は、佐佑にスコットの居場所を正確に教えた。場所さえ判明していれば、一発の銃弾を避けるのは佐佑にとってそう難しいことではない。
「草薙佐佑、参る!」
星明りの闇夜に、青い残像の光が走った。
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近