剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
「おそらくリンダは屋上だが……」
白目を剥く男を無視し、佐佑はエレベーターの稼動状態を調べ始める。
エレベーターホールには、主に下士官や事務官が使用する通常のエレベーターと、機密区画に通じる特別なエレベーターとがある。前者は機密区画内からの呼び出しに応じることがなく、そもそも機密区画内に乗降用の扉を持たない。後者はすべての階に通じているが、機密区画外から呼び出すためには専用のキーが必要であり、乗り込んだ後の操作にもそのキーが必要となる。たとえ、機密区画外から機密区画外への移動であっても、だ。
当然ながら、佐佑は屋上へ向かうためのキーを持っていない。
武装した兵士が駐屯していないとはいえ、ここは軍事施設。地下にはシェルターがあり、屋上にはヘリポートがある。シェルターは勿論のこと、防衛上重要な意味を持つ屋上も、機密区画に含まれている。
「まさかとは思うけど……」
ソフィアは言葉尻を濁した。相手を批難するよりも、受け入れ難い現実からの逃避を目的としたものだ。
「すべての鍵が内部にある。上に行く方法は無い」
「予測した上で、ここを決戦の場所に選んだのではなかったの?」
「いや、すまん。正直そこまで考えが回らなかったのだ」
佐佑はあくまでも平然と言ってのける。だがソフィアは、言葉の裏に秘められた焦りを確かに感じでいた。
だから、それ以上は佐佑を責めたりはしない。
「翼でも生やしてみる?」
「さすがに空は飛べないな。ヘリで近づけば狙い撃ちされるし、そもそもヘリを待つ時間はない」
「行ける階まで行って、外壁をよじ登るとか?」
「命綱なしのフリークライミングか。そそるね」
佐佑は左腕が使えない。ソフィアは身体的にはただの少女と大差がない。
実現不可能なことは、二人ともに理解している。それでも何かを口にしていなければ、焦りに潰されてしまう。二人が何よりも避けるべきは、冷静を欠くことだった。
佐佑は考えた。ここエレベーターホールに、門番が配置されていた意味を。
ただの見張りならば、監視カメラの映像を眺めさせておけばいい。
機密区画である屋上には、エレベーターを動かすキーがなければ辿り着くことができない。それは、それだけで充分な障壁となる。また、“何人たりとも通さない”ことが目的であるから、通行の可否を判定する門番は不要となる。誰かを待っているのであれば、それこそ監視カメラで確認してから迎えを遣せば良いだけのことだ。エレベーターホールに陣取る必要はない。
ここから屋上へ向かう方法がある。
佐佑は確信する。そしてその確信は、瞬時にソフィアにも伝わった。
直後、二人の視線が同じ場所へと向けられる。
「エレベーターシャフト内の梯子を使おう。縦穴は最上階まで通じている。そこから屋上へ行こう」
「えぇ、急ぎましょう」
* * *
時を遡ること三十年。
ロンドンスモッグ事件から六年。
クローディアがゼネッティと出会ったのは、その頃だ。
当時のゼネッティは、将来を有望視される将校ではあったが、スエズ戦争の政治的敗北による軍縮の煽りを受けて閑職に追われおり、目的もなくただ国内を旅して回っていた。
食料を求めてゴミ箱を漁っていたクローディアを見かけたゼネッティは、彼女をホテルに連れ帰った。下心などではなく、ただの気まぐれであった。親戚をあたれば、住み込みの小間使いとして雇ってくれるだろう、その程度のものだ。
しかし、クローディアは美しく聡明であった。
ゼネッティは心を奪われた。そして、愛を囁いた。
―― 愛しているよ
クローディアはゆっくりと目を開いた。
眼下に広がるロンドンの街並みは、少しずつその姿を変えている。一人の人間には決して見届けることができないほどの時間を掛けて。
クローディアの一番古い記憶には、このように街を見下ろした景観は存在していない。
「思い出せたかしら?」
“the Witch”リンダ・クロウの声が、クローディアの耳に届く。
「えぇ。できることなら、忘れたままでいたかったけれど」
クローディアは、ありったけの憎しみを込めて声を発した。
屋上ヘリポートには、見るからに禍々しい紋様がみっちりと描かれている。その中心では、クローディアが腕を大きく左右に広げた状態で宙に浮いていた。まるで、透明な十字架に貼り付けられているかのようである。
「記憶を封じてまで逃れようとするなんてね。あなたのツルギは記憶を消して力を振るうことを選んだというのに。運命からは逃げられない。分かるでしょう?」
クローディアを見上げるリンダの瞳は、恍惚としていた。
「私の運命を知っているような口ぶりね」
寒気をもたらすリンダの視線に負けまいと、クローディアは腹に力を入れる。
「あなたは永遠を生きる“時の監視者”よ」
「違う。私はそんなものじゃない」
「そう、あなたは否定している。だから私が代わってあげるのよ。あなたの代わりに永遠を生き、人と世界とを監視してゆくの」
「それはあなたが“不老”に抱く幻想、ただの支配欲求よ」
「支配ですって?」
リンダは、不思議な物を見るように小首を傾げた。
「ではなぜ力を求めるの?」
「道を外れた者には罰が必要でしょう」
「意にそぐわない者を排除する、それを支配と呼ばずに何と呼ぶの」
「あなたには分からないのね」
リンダは、そっと目を伏せた。
「あなたも分かっていないのよ、“the Witch”」
「残念だけれど、立ち向かう勇気を持たぬ者の言に貸す耳は、持ち合わせていないのよ」
クローディアの身体を拘束している不可視の枷が、その締め付けをより強くする。
「持って生まれた自分の力を否定した罰よ」
リンダは、クラシック音楽を聞くようにクローディアの呻きに耳を済ませた。
「確かに罰よ。でも……持って生まれた力なんかじゃない!」
「そう……、あなたも誰かから奪ったのね」
「違……アアァァ!!」
リンダは締める力を更に強め、クローディアはその表情を苦悶に歪めた。
「ほら、聞こえるでしょう? ツルギを携えた女神の足音が。もうすぐよ、もうすぐ私は……っ!」
リンダは僅かに高揚した様子を見せた。
「……サ…ユウは……勝つ…わ」
「時間が無いと思わせれば、焦って準備不足のままやってくる。でもね、こちらの準備は万端。二対一でも負けはしない」
気を失ったクローディアに勝ち誇ったように言い放つと、リンダは屋内へと繋がる扉へと視線を移した。
その瞬間――
風が止む。
―― ヒフミヨイムナヤココタリ
酸素が薄くなり、空気が重みを増す。
―― フルベユラユラトフルベ
大気が、鳴いた。
白目を剥く男を無視し、佐佑はエレベーターの稼動状態を調べ始める。
エレベーターホールには、主に下士官や事務官が使用する通常のエレベーターと、機密区画に通じる特別なエレベーターとがある。前者は機密区画内からの呼び出しに応じることがなく、そもそも機密区画内に乗降用の扉を持たない。後者はすべての階に通じているが、機密区画外から呼び出すためには専用のキーが必要であり、乗り込んだ後の操作にもそのキーが必要となる。たとえ、機密区画外から機密区画外への移動であっても、だ。
当然ながら、佐佑は屋上へ向かうためのキーを持っていない。
武装した兵士が駐屯していないとはいえ、ここは軍事施設。地下にはシェルターがあり、屋上にはヘリポートがある。シェルターは勿論のこと、防衛上重要な意味を持つ屋上も、機密区画に含まれている。
「まさかとは思うけど……」
ソフィアは言葉尻を濁した。相手を批難するよりも、受け入れ難い現実からの逃避を目的としたものだ。
「すべての鍵が内部にある。上に行く方法は無い」
「予測した上で、ここを決戦の場所に選んだのではなかったの?」
「いや、すまん。正直そこまで考えが回らなかったのだ」
佐佑はあくまでも平然と言ってのける。だがソフィアは、言葉の裏に秘められた焦りを確かに感じでいた。
だから、それ以上は佐佑を責めたりはしない。
「翼でも生やしてみる?」
「さすがに空は飛べないな。ヘリで近づけば狙い撃ちされるし、そもそもヘリを待つ時間はない」
「行ける階まで行って、外壁をよじ登るとか?」
「命綱なしのフリークライミングか。そそるね」
佐佑は左腕が使えない。ソフィアは身体的にはただの少女と大差がない。
実現不可能なことは、二人ともに理解している。それでも何かを口にしていなければ、焦りに潰されてしまう。二人が何よりも避けるべきは、冷静を欠くことだった。
佐佑は考えた。ここエレベーターホールに、門番が配置されていた意味を。
ただの見張りならば、監視カメラの映像を眺めさせておけばいい。
機密区画である屋上には、エレベーターを動かすキーがなければ辿り着くことができない。それは、それだけで充分な障壁となる。また、“何人たりとも通さない”ことが目的であるから、通行の可否を判定する門番は不要となる。誰かを待っているのであれば、それこそ監視カメラで確認してから迎えを遣せば良いだけのことだ。エレベーターホールに陣取る必要はない。
ここから屋上へ向かう方法がある。
佐佑は確信する。そしてその確信は、瞬時にソフィアにも伝わった。
直後、二人の視線が同じ場所へと向けられる。
「エレベーターシャフト内の梯子を使おう。縦穴は最上階まで通じている。そこから屋上へ行こう」
「えぇ、急ぎましょう」
* * *
時を遡ること三十年。
ロンドンスモッグ事件から六年。
クローディアがゼネッティと出会ったのは、その頃だ。
当時のゼネッティは、将来を有望視される将校ではあったが、スエズ戦争の政治的敗北による軍縮の煽りを受けて閑職に追われおり、目的もなくただ国内を旅して回っていた。
食料を求めてゴミ箱を漁っていたクローディアを見かけたゼネッティは、彼女をホテルに連れ帰った。下心などではなく、ただの気まぐれであった。親戚をあたれば、住み込みの小間使いとして雇ってくれるだろう、その程度のものだ。
しかし、クローディアは美しく聡明であった。
ゼネッティは心を奪われた。そして、愛を囁いた。
―― 愛しているよ
クローディアはゆっくりと目を開いた。
眼下に広がるロンドンの街並みは、少しずつその姿を変えている。一人の人間には決して見届けることができないほどの時間を掛けて。
クローディアの一番古い記憶には、このように街を見下ろした景観は存在していない。
「思い出せたかしら?」
“the Witch”リンダ・クロウの声が、クローディアの耳に届く。
「えぇ。できることなら、忘れたままでいたかったけれど」
クローディアは、ありったけの憎しみを込めて声を発した。
屋上ヘリポートには、見るからに禍々しい紋様がみっちりと描かれている。その中心では、クローディアが腕を大きく左右に広げた状態で宙に浮いていた。まるで、透明な十字架に貼り付けられているかのようである。
「記憶を封じてまで逃れようとするなんてね。あなたのツルギは記憶を消して力を振るうことを選んだというのに。運命からは逃げられない。分かるでしょう?」
クローディアを見上げるリンダの瞳は、恍惚としていた。
「私の運命を知っているような口ぶりね」
寒気をもたらすリンダの視線に負けまいと、クローディアは腹に力を入れる。
「あなたは永遠を生きる“時の監視者”よ」
「違う。私はそんなものじゃない」
「そう、あなたは否定している。だから私が代わってあげるのよ。あなたの代わりに永遠を生き、人と世界とを監視してゆくの」
「それはあなたが“不老”に抱く幻想、ただの支配欲求よ」
「支配ですって?」
リンダは、不思議な物を見るように小首を傾げた。
「ではなぜ力を求めるの?」
「道を外れた者には罰が必要でしょう」
「意にそぐわない者を排除する、それを支配と呼ばずに何と呼ぶの」
「あなたには分からないのね」
リンダは、そっと目を伏せた。
「あなたも分かっていないのよ、“the Witch”」
「残念だけれど、立ち向かう勇気を持たぬ者の言に貸す耳は、持ち合わせていないのよ」
クローディアの身体を拘束している不可視の枷が、その締め付けをより強くする。
「持って生まれた自分の力を否定した罰よ」
リンダは、クラシック音楽を聞くようにクローディアの呻きに耳を済ませた。
「確かに罰よ。でも……持って生まれた力なんかじゃない!」
「そう……、あなたも誰かから奪ったのね」
「違……アアァァ!!」
リンダは締める力を更に強め、クローディアはその表情を苦悶に歪めた。
「ほら、聞こえるでしょう? ツルギを携えた女神の足音が。もうすぐよ、もうすぐ私は……っ!」
リンダは僅かに高揚した様子を見せた。
「……サ…ユウは……勝つ…わ」
「時間が無いと思わせれば、焦って準備不足のままやってくる。でもね、こちらの準備は万端。二対一でも負けはしない」
気を失ったクローディアに勝ち誇ったように言い放つと、リンダは屋内へと繋がる扉へと視線を移した。
その瞬間――
風が止む。
―― ヒフミヨイムナヤココタリ
酸素が薄くなり、空気が重みを増す。
―― フルベユラユラトフルベ
大気が、鳴いた。
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近