剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
* * *
「お父上が心配していたよ」
「何を?」
「『急に休暇が欲しいなんて、男ができたんじゃないのか』」
「それ、父の真似? よく似てる」
「事ある毎に呼び出されるからな」
「日本では“自業自得”と言うのでしょう?」
ロンドン郊外にある佐佑のマンションに、早めに仕事を切り上げたクローディアが訪れたところだ。
佐佑は、窓辺に座り文庫本を読んでいた。日本から持ってきたその本は、既に何度となく読み返されていて、手垢で汚れてしまっている。
その物語は、同居していた男女が別れることになり、男が出て行くその日までの女の心情を描いた作品だ。別れのシーンでは、雪が好きな男のために、二階の窓から砂糖を振り撒くのだ。
日本語が読めないクローディアに少しずつ読んで聞かせていたのだが、いつの間にかあやふやになって止めてしまった。
一緒にいる間はもう着ることがなくなった冬物の衣類を、一枚一枚折りたたんでダンボールに詰める場面まで読んで聞かせたと記憶している。
だが、肝心のクローディアがそこまでの物語を覚えていないのでは、何の意味もない。かといって、再び最初から読んで聞かせるのもどうだろうかと考え、クローディアが続きを気にしている素振りを見せたらどこまで覚えているのかを訊いてみようと思い、そのままになっている。
「今夜は食事に行こう」
「あら、めずらしい。どこへ連れて行ってくれるの?」
「最近改装したホテルがあるだろう? 新しい店ができたらしい」
「でも、こんな恰好じゃあ行けないわね」
「二十時に天文台広場で待ち合わせしよう」
「家まで迎えに来てくれないの?」
「お父上に見つかると面倒だ。前に、外で待ち合わせするのが日本流だ、と言ったじゃないか。たまにはいいだろ?」
「そうなの? じゃあそれでいいわ。でも遅れないでね? 誘拐されちゃうわ」
クローディアは、嬉しそうに笑いながらそう言って、佐佑のマンションを後にした。
窓の外では、欠けた月が赤い光を放っていた。その月が地平線に隠れるまでは、およそ二時間弱といったところだ。
ベランダに出て、テールランプの光が見えなくなるまでクローディアの車を見送っていた佐佑は、車が角を曲がって見えなくなると同時に、口の端を攣り上げて自嘲気味に笑った。
「平気で嘘を吐けるようになってしまったな」
本を閉じてから、口をつけないままに冷めてしまった紅茶を口に含み、鼻腔に広がる香りを少しでも楽しもうとして目を閉じる。
―― いつか日本に連れて行って欲しい
それは、いつだったかクローディアに頼まれたことだ。文字通り日本に連れて行くだけならば、いつだって、簡単に、叶えてやれる。……だが。
佐佑とて朴念仁ではない。その言葉の裏に秘められた意味に気付かぬわけもない。この一年で、佐佑のクローディアに対する想いは確固たるものになっている。特定の異性を特別扱いすることはない、と思っていた佐佑だったが、既に誤魔化しようのない感情が根付いているのが現実だった。最早、佐佑には彼女なしの生活は考えられない。……しかし。
導き出す答えが毎日変わってしまうこの問題から逃げるために、日本への帰国を求めた自分を卑怯者と嘲笑うのは、答えを先送りにしようとしている無責任な自分に他ならなかった。
将来のことを考え出せば、冷静でいられなくなる。そんな自分がそれほど嫌いではないことに気付いたのは、つい先日のことだ。
「結婚……か」
口にすれば、それはより現実味を帯びる。
クローディアは将軍の一人娘。もしも結婚するとなれば、日本へ帰る日が遠くなるのは間違いない。最悪、一生帰ることは叶わなくなるかもしれない。しかし、そうなってしまっても、それが自らの選択が導いた結果である限り、佐佑は後悔などしないだろう。
佐佑を思い悩ませているのは、二人の違い、だ。
人種でも、性別でも、価値観でもない。むしろ、徹底的に違う互いに譲ることのできない何かが存在していれば、これほど悩むことはなかっただろう。
マンションのベランダには、先週日本から取り寄せたばかりの鉢植えが並べられている。既に土が盛ってあり、あとは種を埋めるだけの状態だ。
プラスチック製の白いプランターならロンドンでも入手できたのだが、定番の茶色い鉢植えを見つけることは叶わなかったため、わざわざ日本から取り寄せたのだ。注文してから手元に届くまでに三ヶ月も掛かったのは、未だに佐佑がスパイとして疑われている証拠だ。
同じくベランダにある白いプランターには、グラジオラスが植えてある。このまま開花の季節を迎えれば、立派な花を咲かせるだろう。
グラジオラスは、長い穂先に幾つもの連なった花を咲かせるアヤメ科の花で、日本では七月から十月の間、夏場の花壇を豪華に彩って咲く。
その名前の語源は、ラテン語のGladius(グラディウス)なのだ。
佐佑は、自分を同じ名を持つこの花を、クローディアに見せてやりたいと思っていた。ここロンドンの気候でも日本と同じように咲くという自信はなかったのだが、花は愛情を持って育てていれば、必ず咲くものだ。少なくとも佐佑はそう思っている。しかし、日本と同じ時期に咲くとしても、開花時期まで一ヶ月以上は待たなければならない。だが、佐佑は既に日本へ帰還が決まっている。
このプランターでグラジオラスの花が咲く頃、このマンションにグラディウスという名の男はいないのだ。
佐佑は、雑念を振り払うようにして種を植え、充分な水を注ぐ。そして、戦いの準備をするために、ベランダから部屋の中へと戻っていった。
「お父上が心配していたよ」
「何を?」
「『急に休暇が欲しいなんて、男ができたんじゃないのか』」
「それ、父の真似? よく似てる」
「事ある毎に呼び出されるからな」
「日本では“自業自得”と言うのでしょう?」
ロンドン郊外にある佐佑のマンションに、早めに仕事を切り上げたクローディアが訪れたところだ。
佐佑は、窓辺に座り文庫本を読んでいた。日本から持ってきたその本は、既に何度となく読み返されていて、手垢で汚れてしまっている。
その物語は、同居していた男女が別れることになり、男が出て行くその日までの女の心情を描いた作品だ。別れのシーンでは、雪が好きな男のために、二階の窓から砂糖を振り撒くのだ。
日本語が読めないクローディアに少しずつ読んで聞かせていたのだが、いつの間にかあやふやになって止めてしまった。
一緒にいる間はもう着ることがなくなった冬物の衣類を、一枚一枚折りたたんでダンボールに詰める場面まで読んで聞かせたと記憶している。
だが、肝心のクローディアがそこまでの物語を覚えていないのでは、何の意味もない。かといって、再び最初から読んで聞かせるのもどうだろうかと考え、クローディアが続きを気にしている素振りを見せたらどこまで覚えているのかを訊いてみようと思い、そのままになっている。
「今夜は食事に行こう」
「あら、めずらしい。どこへ連れて行ってくれるの?」
「最近改装したホテルがあるだろう? 新しい店ができたらしい」
「でも、こんな恰好じゃあ行けないわね」
「二十時に天文台広場で待ち合わせしよう」
「家まで迎えに来てくれないの?」
「お父上に見つかると面倒だ。前に、外で待ち合わせするのが日本流だ、と言ったじゃないか。たまにはいいだろ?」
「そうなの? じゃあそれでいいわ。でも遅れないでね? 誘拐されちゃうわ」
クローディアは、嬉しそうに笑いながらそう言って、佐佑のマンションを後にした。
窓の外では、欠けた月が赤い光を放っていた。その月が地平線に隠れるまでは、およそ二時間弱といったところだ。
ベランダに出て、テールランプの光が見えなくなるまでクローディアの車を見送っていた佐佑は、車が角を曲がって見えなくなると同時に、口の端を攣り上げて自嘲気味に笑った。
「平気で嘘を吐けるようになってしまったな」
本を閉じてから、口をつけないままに冷めてしまった紅茶を口に含み、鼻腔に広がる香りを少しでも楽しもうとして目を閉じる。
―― いつか日本に連れて行って欲しい
それは、いつだったかクローディアに頼まれたことだ。文字通り日本に連れて行くだけならば、いつだって、簡単に、叶えてやれる。……だが。
佐佑とて朴念仁ではない。その言葉の裏に秘められた意味に気付かぬわけもない。この一年で、佐佑のクローディアに対する想いは確固たるものになっている。特定の異性を特別扱いすることはない、と思っていた佐佑だったが、既に誤魔化しようのない感情が根付いているのが現実だった。最早、佐佑には彼女なしの生活は考えられない。……しかし。
導き出す答えが毎日変わってしまうこの問題から逃げるために、日本への帰国を求めた自分を卑怯者と嘲笑うのは、答えを先送りにしようとしている無責任な自分に他ならなかった。
将来のことを考え出せば、冷静でいられなくなる。そんな自分がそれほど嫌いではないことに気付いたのは、つい先日のことだ。
「結婚……か」
口にすれば、それはより現実味を帯びる。
クローディアは将軍の一人娘。もしも結婚するとなれば、日本へ帰る日が遠くなるのは間違いない。最悪、一生帰ることは叶わなくなるかもしれない。しかし、そうなってしまっても、それが自らの選択が導いた結果である限り、佐佑は後悔などしないだろう。
佐佑を思い悩ませているのは、二人の違い、だ。
人種でも、性別でも、価値観でもない。むしろ、徹底的に違う互いに譲ることのできない何かが存在していれば、これほど悩むことはなかっただろう。
マンションのベランダには、先週日本から取り寄せたばかりの鉢植えが並べられている。既に土が盛ってあり、あとは種を埋めるだけの状態だ。
プラスチック製の白いプランターならロンドンでも入手できたのだが、定番の茶色い鉢植えを見つけることは叶わなかったため、わざわざ日本から取り寄せたのだ。注文してから手元に届くまでに三ヶ月も掛かったのは、未だに佐佑がスパイとして疑われている証拠だ。
同じくベランダにある白いプランターには、グラジオラスが植えてある。このまま開花の季節を迎えれば、立派な花を咲かせるだろう。
グラジオラスは、長い穂先に幾つもの連なった花を咲かせるアヤメ科の花で、日本では七月から十月の間、夏場の花壇を豪華に彩って咲く。
その名前の語源は、ラテン語のGladius(グラディウス)なのだ。
佐佑は、自分を同じ名を持つこの花を、クローディアに見せてやりたいと思っていた。ここロンドンの気候でも日本と同じように咲くという自信はなかったのだが、花は愛情を持って育てていれば、必ず咲くものだ。少なくとも佐佑はそう思っている。しかし、日本と同じ時期に咲くとしても、開花時期まで一ヶ月以上は待たなければならない。だが、佐佑は既に日本へ帰還が決まっている。
このプランターでグラジオラスの花が咲く頃、このマンションにグラディウスという名の男はいないのだ。
佐佑は、雑念を振り払うようにして種を植え、充分な水を注ぐ。そして、戦いの準備をするために、ベランダから部屋の中へと戻っていった。
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近