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剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-

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 *  *  *

 霧魔ミラビリスは、完全に理性を失った。
 “食事”が終わるまでは、本能の赴くままに貪り喰らうだろう。
 佐佑は、胸の前に構えた破魔刀・柳風の切先に集中を注ぐ。
「死せるイザナミに取り憑きし黄泉の八雷神、今ここに来たれ」

 ―― ヒフミヨイムナヤココタリ フルベユラユラトフルベ
『一二三四五七八九十 布留部由良由良止布留部』

 ―― ヤクサノイカヅチノカミ オオホノクロサクワカツチナルフス
『八雷神 大火黒折若土鳴伏』

 霧は雲。
 雲は過飽和状態(湿度百%以上)の空気。その空気中に浮遊する微粒子に水蒸気・微細な水が付着すると、雲ができる。
 空気中に浮遊する微粒子“大気エアロゾル粒子”こそが、霧魔ミラビリスの本性であり、本体だ。言い換えれば、塵や埃だ。
 理論上、空気の温度を上げれば、空気の水分保有可能量が上がり、結果として湿度が下がるため、過飽和状態を脱した空気は雲ではなくなる。
 霧魔ミラビリスの打倒を目指したイングウェイは、空気を温める方法として炎を選択した。だが、炎は上昇気流を生む。霧魔ミラビリスの本体である微粒子は、上昇気流に乗って流れるのみ。
 炎で霧魔ミラビリスを倒すには、霧全体の前後左右上下すべてを炎で包まなければならない。高度千メートルにまで達する霧の上部に、広い範囲で炎を維持することは、世界一の炎術士と謳われたイングウェイを以ってしても、実現不可能であった。
 だが雷は。
 雲の主成分は水蒸気。つまりは水。
 水は電気伝導体。実際には水中の電解質、つまり水中の異物が電気を流している。水中の異物は電気を受けて電気抵抗を行い、熱を発生させる。水中の異物とは、空気中に浮遊する微粒子“大気エアロゾル粒子”だ。温度が上がり過飽和状態が解け、雲は消滅する。
 炎との違いは、その伝達速度の違いだ。伝達された結果として熱が発生する雷は、熱によって生じた上昇気流が到達する前に、直撃していることになる。
 雷は空中を直進しない。佐佑の身体から放たれた八本の雷電は、激しくうねりながらロンドンの空を蹂躙する。それは、霧を喰らい尽くす暴竜だった。ナットウエスト・タワーの上空を中心として、霧を喰らいながら波紋のように広がり、行き掛けの駄賃とばかりに市街を粉砕する。街路樹や高層ビルの避雷針、駐車中の車などあらゆるものを無造作に撫で付けて、自らの破壊行為を眺めて自己満足に浸ることもなく、初めから興味は無いとばかりに通り過ぎる。
 それは、息を吸い終わるよりも短い間の出来事だった。
 ロンドン市街を覆っていた巨大な霧は、激しい雷鳴が鳴り止むと同時に姿を消した。だが、まだ上空には霧が残ったままだ。

「くそぉっ!」
 佐佑は息を切らして屈み込んだ。両手を膝に突いた前屈の姿勢だ。既に破魔刀・柳風は佐佑の手からこぼれ落ちている。
 佐佑が放った雷は、狙い通りにロンドンを覆っていた霧を喰らい、包み隠されていた霧魔ミラビリスの本体を丸裸にした。
 雷は、確かに霧魔ミラビリスの本体に触れた。だがそこで、佐佑に限界が訪れてしまった。佐佑が万全の状態で臨んでいたならば、臨むことができたならば、この一撃で戦いは終わっていただろう。
 佐佑は今、霧魔ミラビリスの本体の場所を正確に把握している。しかし、追撃を加えるだけの力が残されていなかった。
 霧から伝わる感情が、飢餓から憤怒へと変わる。そしてその怒りの矛先は、ナットウエスト・タワーの屋上にいる佐佑に他ならない。
 霧は、佐佑へと腕を伸ばす。それは、舌と呼んでも、食指と呼んでも、決して間違いではない。
 佐佑は内部へと通じる扉に走った。ヨタヨタとよろめきながらも、なんとか間一髪で飛び込み、数珠をノブに掛けて防護の結界を張った。
 深く息を吐きながら倒れるようにして壁に背中を預け、ずりずりと力なく座り込む。
「喰われたか」
 佐佑の左手の指先は、黒く変色していた。霧に触れた部分の精力が奪われてしまった証拠だ。また、自身の身を守る防御結界を維持する力さえ残っていなかった証拠でもある。
 佐佑は左手を抱くようにしてうずくまる。
 佐佑の頭にあるのは、動かせなくなった左手に対する嘆きではない。今の佐佑には、戦う力は残されていない。今回の戦いは痛み分けで終わりだ。結果は限りなく負けに等しい。
 唯一の戦果は、霧魔ミラビリスの気配を覚えたことだ。
 佐佑は既に次の戦いを描いていた。
 体力が万全の状態で対峙できれば、次は勝てる自信がある。気配を覚えたことで追跡が可能となった。パリであれベルリンであれ、どこまでも追える。
 しかし、追いつけるかどうかはまた別の問題となる。
 扉の外には、まだ霧魔ミラビリスの気配がある。扉を破ろうと暴れているが、数珠の結界はその影響を微塵も受けていない。霧魔とて、身体の大半を消されては無傷では済まない。
「くそっ……たれめ」
 自分自身に対して浴びせた暴言は、ただの自虐か、それとも発奮か。
 もう一撃を放つ方法はある。それは自身の生命を燃やして体内魔力≪オド≫へと変換する方法だ。
 生命を削る行為に、大量も少量も無い。消費量が全体の半分以上であろうが十分の一以下であろうが、使った時点で完全な生命ではなくなる。それは、いつ生命活動が止まるのか分からないということ。
 命を賭すことに抵抗があるわけではないが、それが今か、という点に疑心があった。
 充分な移動速度を確保できれば、追跡することが可能となる。これだけ大規模な被害が出たのであれば、英国だけでなく欧州各国の協力を得られるかもしれない。
 佐佑を踏み留まらせたのは、その可能性だ。
 霧魔ミラビリスの本体に辿り着けていなければ、佐佑は迷わず生命を燃やす選択をしただろう。
 佐佑は、頭を抱えて目を閉じた。
 理由のすべては後付けで、単純に自身の命を惜しんだだけかもしれない、という葛藤。目の前に、命を賭す、という選択肢が現れたのは、佐佑とて初めての経験だ。とはいえ、佐佑が完全に独りで、心までもが孤独であったのなら、このような葛藤に苦しむことはなかっただろう。
「“Gladius”ともあろう男が、詰めを誤るとはな」
 突如聞こえた声に、佐佑は力なく視線を向ける。そして声の主を視認すると、再び目を閉じて項垂れた。
「“ささやかな反抗を”しにきた」
 声の主は、ニヤリ、と笑う。
「今の俺は、無抵抗・不服従だぜ」
 佐佑は、ノブに掛けられた数珠を引き千切った。