剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
* * *
佐佑は、地下の下水道を進んでいた。
佐佑が向かっているのは、ナットウエスト・タワー。高さ百八十三メートルの高層建築。
ソフィアが霧魔ミラビリスの注意を引き付けている間に、タワーの屋上を目指す。佐佑は、屋上を戦う場所として設定した。
黒一色のラバースーツの上から、迷彩柄ではない暗い緑色のアーミーパンツを穿き、足元は軍用の分厚いブーツ。後ろ腰に破魔刀・柳風。
下水道を疾風の如き速さで駆けている。
相手は霧魔。戦うには、準備と道具が要る。
キングス・クロス駅の四番線と五番線の間にあるレンガ調の壁は、一般人は立ち入ることのできない特殊空間への入口となっている。
もともと空間の歪みが存在していたその場所に、佐佑が手を加えて固定したものだ。そこには、非常用の物資が保管されている。保存食、飲料水、衣類、武器弾薬、防護服、そして、佐佑の私物。
佐佑は、ロンドンのあちこちに自身の戦闘用装備を保管している。何人たりとも、いつ何が起こるかは分かりはしない。それは佐佑の持論の一つだ。
タワーの屋上には逃げ場は無いが、もとより逃げるつもりは無い。
佐佑は、慎重にマンホールを開けて地上に出た。
タワー周辺も例外なく霧魔ミラビリスの霧に包まれていた。
どれだけ上手く気配を消したとしても、霧を遮ってしまえば、そこに違和感が発生して感知されてしまう。ただし、既に監視対象を発見していた場合、その程度の違和感は二の次に回る。ロンドンで発生する事件は、一つではないのだから。
佐佑がソフィアを囮に使ったのは、そんな考えがあったからなのだが、実際には、二人ともが霧魔ミラビリスの眼中に無かった。
周囲を囲む霧の変化に、佐佑は表情を固くする。
「ミラビリスめ、リンダの支配から逃れたか」
佐佑は短く息を吐いて気持ちを切り替え、タワーに足を踏み入れた。
そこに、明らかに警戒した様相の警備員が歩み寄った。佐佑の姿は、どう見ても一般人のそれではないのだから、当然の反応だ。
「ご用件は?」
警備員の口が開いた瞬間、佐佑は小さな粒を親指で弾いて放り込んだ。それは、“従順”の花言葉を持つ植物の加工品だ。
「屋上に案内してくれ」
魔力と言霊を乗せて放たれる言葉は、一般人には抗う術が無い。また、素養を持つ者であっても、触媒となる植物の粒を口に含んだあとでは、抵抗は至難の業となる。万能な能力に思えるが、ある一定以上の力を持つ者に対しては、通常無意識に防御結界を纏っているので、口に入る前に弾かれてしまうという欠点がある。
「……はい」
警備員は虚ろな目で返事をした直後、背筋を伸ばして姿勢を正した。
「どうぞこちらへ」
発達した霧の上に出るには、六百メートルから千メートルの高さが必要になる。エレベーターと階段を使って到達した高度百八十メートルの地点であっても、まだ霧の中だ。
霧から伝わる飢餓。枷が外れる瞬間を待ち切れず、制約の鎖を断ち切らんとして暴れ狂う。
「手に負えなくなって放り出したか」
佐佑は独りごつ。
「囮を用意することもなかったな。ま、おかげであれこれ言われずに済む」
周囲に遮蔽物は無い。隠れる場所が無いのは同じ。周囲の霧すべてが敵。全方位から攻撃を受ける一方で、全方位に対し全力で攻撃できる。
「一年か、長いようで短いようで」
佐佑は霧魔ミラビリスを倒すために、ここロンドンへと派遣された。
裏では様々な思惑が交錯していたが、戦えればそれでよかった。過去を捨ててまで得た力、使わずに眠らせておく道理は無い。
だがこの一年で、捨ててしまった過去の何たるかを思い知る。足枷ではなく、重しではなく、守るべきもの、大切なもの、愛おしいもの。
―― クローディア
佐佑は目を閉じ、ただ祈った。
愛しき人が、今このロンドンにいないように、と。
しばらくして、風の温度が変わった。霧魔の枷が外れたのだ。
決して見通すことのできない霧の向こうで、瞬く間に数え切れない数の人間が霧に喰われた。
悲鳴は無い。静かに、霧に溶けていった。血や肉は勿論のこと、骨も皮も、産毛一本に至るまでのすべてが、一瞬で溶けて消える。
あとには、着衣だけが残った。
家路を急ぐ父親も、恋人の元へと向かう男も、庭に繋がれた飼い犬も、分け隔てなく平等に、あらゆる有機生命体を喰らい尽くす。
佐佑は待っていた。霧魔の理性が、本能に駆逐される瞬間を。
理性を失えば、本性が現れる。
本性とは即ち本体。普段は霧によって隠されている、霧魔ミラビリスという魔性。
タワーの屋上からは、霧が無ければロンドン中を俯瞰できる。佐佑が魔性の気配を見逃すことは無い。
人が喰われる様を静観する佐佑は、血も涙も無い男に映るだろう。ソフィアがこの場にいれば、あらん限りの言葉で罵っただろう。
だが、相手は神出鬼没。遠く離れた日本までも移動できる。追いつくことは不可能に近い。
分かっているのは、ここで逃せば打つ手が無くなるということだけ。
これが最小限。佐佑の腹は決まっている。
犠牲者なのか被害者なのかは、自分が決めることではない。
理不尽に対する怒りも、今は飲み込め。
己の無力に対する無念も、今は捨て置け。
―― すべては勝利のために
霧の妖気が濃度を増した。
霧魔が“食事”に没頭し始めたのだ。
佐佑はゆっくりと目を開いた。
風が、佐佑の黒髪を揺らした。
「草薙佐佑、参る!」
* * *
「ちょっと、どういうこと!?」
ソフィアは慌てて問いただしたが、佐佑のダミーは返事をすることなく消滅してしまった。
この霧に人間が喰われていることは、ソフィアも気付いていた。
幸か不幸か、通行人に出会わなかった。すぐに、一歩進む暇さえも無く喰われているのだと気付いたが、気が付かなかったことにした。
ソフィアにできるのは、建物の入口に“外に出るな”という言霊を置いていくことだけだった。
『近くのビルの屋上に上がれ。急げよ』
佐佑のダミーは、突然それだけを叫び、消滅してしまったのだ。
屋上ならば、少しでも高い方がいい。ついさっき、新築マンションの前を通り過ぎたばかり。階数は十数階だが、この周辺では一番高い。
「もうっ!」
ソフィアは今来た道を駆け戻った。
辿り着いたマンションの入口はオートロックで、中には入れなかった。
ソフィアは思い付きの番号を押して住人を呼び出す。
「どちらさまで?」
外の惨事とは無関係な日常生活の声が、スピーカーから流れ出た。
ソフィアは手段を選ばない。
「開けなさい」
言霊を使い、オートロックを開けさせる。
エレベーターを使って最上階へ。非常階段に飛び出し、屋上へ繋がる扉を施錠していた鎖は、物理的に破壊した。
ソフィアは、貯水槽の上に立つ。
霧に包まれた空には、星一つ見つけられない。
「どうするの、クサナギ!」
佐佑は、地下の下水道を進んでいた。
佐佑が向かっているのは、ナットウエスト・タワー。高さ百八十三メートルの高層建築。
ソフィアが霧魔ミラビリスの注意を引き付けている間に、タワーの屋上を目指す。佐佑は、屋上を戦う場所として設定した。
黒一色のラバースーツの上から、迷彩柄ではない暗い緑色のアーミーパンツを穿き、足元は軍用の分厚いブーツ。後ろ腰に破魔刀・柳風。
下水道を疾風の如き速さで駆けている。
相手は霧魔。戦うには、準備と道具が要る。
キングス・クロス駅の四番線と五番線の間にあるレンガ調の壁は、一般人は立ち入ることのできない特殊空間への入口となっている。
もともと空間の歪みが存在していたその場所に、佐佑が手を加えて固定したものだ。そこには、非常用の物資が保管されている。保存食、飲料水、衣類、武器弾薬、防護服、そして、佐佑の私物。
佐佑は、ロンドンのあちこちに自身の戦闘用装備を保管している。何人たりとも、いつ何が起こるかは分かりはしない。それは佐佑の持論の一つだ。
タワーの屋上には逃げ場は無いが、もとより逃げるつもりは無い。
佐佑は、慎重にマンホールを開けて地上に出た。
タワー周辺も例外なく霧魔ミラビリスの霧に包まれていた。
どれだけ上手く気配を消したとしても、霧を遮ってしまえば、そこに違和感が発生して感知されてしまう。ただし、既に監視対象を発見していた場合、その程度の違和感は二の次に回る。ロンドンで発生する事件は、一つではないのだから。
佐佑がソフィアを囮に使ったのは、そんな考えがあったからなのだが、実際には、二人ともが霧魔ミラビリスの眼中に無かった。
周囲を囲む霧の変化に、佐佑は表情を固くする。
「ミラビリスめ、リンダの支配から逃れたか」
佐佑は短く息を吐いて気持ちを切り替え、タワーに足を踏み入れた。
そこに、明らかに警戒した様相の警備員が歩み寄った。佐佑の姿は、どう見ても一般人のそれではないのだから、当然の反応だ。
「ご用件は?」
警備員の口が開いた瞬間、佐佑は小さな粒を親指で弾いて放り込んだ。それは、“従順”の花言葉を持つ植物の加工品だ。
「屋上に案内してくれ」
魔力と言霊を乗せて放たれる言葉は、一般人には抗う術が無い。また、素養を持つ者であっても、触媒となる植物の粒を口に含んだあとでは、抵抗は至難の業となる。万能な能力に思えるが、ある一定以上の力を持つ者に対しては、通常無意識に防御結界を纏っているので、口に入る前に弾かれてしまうという欠点がある。
「……はい」
警備員は虚ろな目で返事をした直後、背筋を伸ばして姿勢を正した。
「どうぞこちらへ」
発達した霧の上に出るには、六百メートルから千メートルの高さが必要になる。エレベーターと階段を使って到達した高度百八十メートルの地点であっても、まだ霧の中だ。
霧から伝わる飢餓。枷が外れる瞬間を待ち切れず、制約の鎖を断ち切らんとして暴れ狂う。
「手に負えなくなって放り出したか」
佐佑は独りごつ。
「囮を用意することもなかったな。ま、おかげであれこれ言われずに済む」
周囲に遮蔽物は無い。隠れる場所が無いのは同じ。周囲の霧すべてが敵。全方位から攻撃を受ける一方で、全方位に対し全力で攻撃できる。
「一年か、長いようで短いようで」
佐佑は霧魔ミラビリスを倒すために、ここロンドンへと派遣された。
裏では様々な思惑が交錯していたが、戦えればそれでよかった。過去を捨ててまで得た力、使わずに眠らせておく道理は無い。
だがこの一年で、捨ててしまった過去の何たるかを思い知る。足枷ではなく、重しではなく、守るべきもの、大切なもの、愛おしいもの。
―― クローディア
佐佑は目を閉じ、ただ祈った。
愛しき人が、今このロンドンにいないように、と。
しばらくして、風の温度が変わった。霧魔の枷が外れたのだ。
決して見通すことのできない霧の向こうで、瞬く間に数え切れない数の人間が霧に喰われた。
悲鳴は無い。静かに、霧に溶けていった。血や肉は勿論のこと、骨も皮も、産毛一本に至るまでのすべてが、一瞬で溶けて消える。
あとには、着衣だけが残った。
家路を急ぐ父親も、恋人の元へと向かう男も、庭に繋がれた飼い犬も、分け隔てなく平等に、あらゆる有機生命体を喰らい尽くす。
佐佑は待っていた。霧魔の理性が、本能に駆逐される瞬間を。
理性を失えば、本性が現れる。
本性とは即ち本体。普段は霧によって隠されている、霧魔ミラビリスという魔性。
タワーの屋上からは、霧が無ければロンドン中を俯瞰できる。佐佑が魔性の気配を見逃すことは無い。
人が喰われる様を静観する佐佑は、血も涙も無い男に映るだろう。ソフィアがこの場にいれば、あらん限りの言葉で罵っただろう。
だが、相手は神出鬼没。遠く離れた日本までも移動できる。追いつくことは不可能に近い。
分かっているのは、ここで逃せば打つ手が無くなるということだけ。
これが最小限。佐佑の腹は決まっている。
犠牲者なのか被害者なのかは、自分が決めることではない。
理不尽に対する怒りも、今は飲み込め。
己の無力に対する無念も、今は捨て置け。
―― すべては勝利のために
霧の妖気が濃度を増した。
霧魔が“食事”に没頭し始めたのだ。
佐佑はゆっくりと目を開いた。
風が、佐佑の黒髪を揺らした。
「草薙佐佑、参る!」
* * *
「ちょっと、どういうこと!?」
ソフィアは慌てて問いただしたが、佐佑のダミーは返事をすることなく消滅してしまった。
この霧に人間が喰われていることは、ソフィアも気付いていた。
幸か不幸か、通行人に出会わなかった。すぐに、一歩進む暇さえも無く喰われているのだと気付いたが、気が付かなかったことにした。
ソフィアにできるのは、建物の入口に“外に出るな”という言霊を置いていくことだけだった。
『近くのビルの屋上に上がれ。急げよ』
佐佑のダミーは、突然それだけを叫び、消滅してしまったのだ。
屋上ならば、少しでも高い方がいい。ついさっき、新築マンションの前を通り過ぎたばかり。階数は十数階だが、この周辺では一番高い。
「もうっ!」
ソフィアは今来た道を駆け戻った。
辿り着いたマンションの入口はオートロックで、中には入れなかった。
ソフィアは思い付きの番号を押して住人を呼び出す。
「どちらさまで?」
外の惨事とは無関係な日常生活の声が、スピーカーから流れ出た。
ソフィアは手段を選ばない。
「開けなさい」
言霊を使い、オートロックを開けさせる。
エレベーターを使って最上階へ。非常階段に飛び出し、屋上へ繋がる扉を施錠していた鎖は、物理的に破壊した。
ソフィアは、貯水槽の上に立つ。
霧に包まれた空には、星一つ見つけられない。
「どうするの、クサナギ!」
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近