剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
「口惜しや! 口惜しや!」
しわがれた老人の声は、怒気を含んだ叫びに変わった。
怒気は熱気に変わり、ドーム内のあちこちに小さな火花が散り始めた。火花は火に、火は炎に、炎は何もないはずの空中に留まり燃える。次第に数が増え、ドーム内のすべてが炎で照らされた。
床も壁も天井も、そのすべてが石で作られているため、燃え移って炎上し天井が焼け落ちてくるなどの心配は無用だが、通気孔もない地下ではあっという間に酸欠に陥ってしまう。
ソフィアは思考を廻らせる。
脱出する時間はある。ただし、脱出する場合は佐佑の救出に多大な時間を費やす必要が生まれる。
佐佑の救出に必要な道具は、このドーム状の広間にある。破壊されることはないだろうが、物理的に持ち出すことが不可能になる場合はある。
一般に石造建築に使われる石材は花崗岩で、その熔解温度は約千四百度。これは炎で出せない温度ではないため、熔けた岩石に埋もれてしまう可能性があるということだ。
そこでソフィアは思い至る。
これだけ自在に炎を発生させられる魔物を従えているのならば、もっと簡単に決着を付けられたはずだ、ということと、罠であったのならば、ここにあったはずの呪法の効果を打ち消す道具は、既に持ち出されている可能性が高い、ということだ。
ここには無いかもしれない。
頭で分かっていても、そう簡単に割り切れるものではない。
炎を扱う相手との戦いを選択するには、逃げ場の無い閉鎖的な空間はリスクが大きすぎる。酸欠はそれだけ大きなの脅威となるということだ。
「いや待てよ、今“Gladius”は陣中で身動きできぬということではないか」
しわがれた老人の声は、高らかに笑った。
「ははは! やったぞ! これで我が目的は達成できる。忌々しい魔女とも縁が切れる! ははは!」
次々に炎が弾け、その度に眩い光を放つ。
ソフィアはその隙をついて目的の道具の所在を探ったが、前回訪れた一ヶ月前とは並びが変わっていて、短時間では見つけるまでには至らない。
「そうか、そうか。ここにいるのは魔女の孫娘か」
自分に向けられた意識を感じて、ソフィアは身体を緊張させる。
「どんな姿かは分からぬが、きっと美しい姿をしておるのだろうな。あの魔女は若さと美しさを求めていたからな」
「どういうこと?」
背中に悪寒が走るのを感じて、ソフィアは思わず問い掛ける。
「あの魔女は、孫娘の身体を乗っ取る計画を立てていたのさ。ははは、醜く焼け爛れた身体を見ても、計画を続行するかどうかは分からんがね!」
「っ!!」
背後に危険を感じたソフィアは、咄嗟に身を捩って床に倒れ込んだ。
直前までソフィアの身体があった場所を、赤赤と燃える炎の塊が勢いよく通過する。そのまま石の壁に衝突して砕けたが、落下した破片は消えることなく床の上で燻り続けていた。
うつ伏せに倒れ込んだソフィアは、手や服や顎や頬に床の汚れが付いてしまったことに不快を覚え、ギリと歯を噛み締めて起き上がる。
「お相手して差し上げますわ!」
相手の姿は見えない。けれど戦う手段の見当は付いていた。
炎の塊は、直径十メートルほどのドーム状の広間内には万遍なく浮遊しているが、広間を出た回廊部にはただの一つも存在していない。広間と回廊との間には何の敷居もなく、炎の有無という明確な違いを無視するのは妙策とは言い難い。とはいえ、相手が力を振るえるのはこの広間のみ、と結論するのは早計だが、あまり時間を費やせない事情もあって、ソフィアは一気に勝負に出る。
思念体であっても、現世に干渉している以上、どこかに本体つまりは核が存在していることを表している。核は、物理的に触ることや見ることが不可能である場合がほとんどだが、同じく触ることや見ることが不可能な物質あるいは概念を使用することで、その存在を感知することは可能となる。
いわゆる精神エネルギー、魔力そのものだ。
ソフィアは、身に宿る魔力を解放する。そうして自らの存在を肥大化させ、周囲の空間を自身の領域へと塗り替えていった。
身体そのものが大きくなっているのではなく、ソフィア・クロウという存在を広げているのだ。身体のみではなく周囲の空間をも含めての、ソフィア・クロウという存在、というわけだ。
そうして残った自身の領域とならない空間に、思念体の本体がある。
思念体が行っている、炎の塊などの物体を万遍なく浮遊させることで自身の領域と成す方法は、物理的に空間を掌握する手法であり、生身の相手に対しては視覚的にも充分な重圧を掛けることができる。
ただし、勇気と覚悟とを兼ね備えた相手に対しては、効果は激減する。
ソフィアに触れた炎の塊は、音も無く消えていった。
一つ、二つ、と炎はその数を減らしていく。
「なるほど、そうくるか。ならば」
ごう、と音がした瞬間に、浮遊する炎の数が倍以上に増える。
だがソフィアは微塵も動じることなく、望むところよ、とばかりに小さな白い手を握り締めた。
魔物との戦い方は、複雑多岐に渡る。
経文を彫った剣、霊木から削り出した木刀などを使う近接タイプ。
ガン(銃)、ブリット(弾丸)、アロー(矢)など様々な呼称で知られるマジック・ミサイルの類を撃つ射撃タイプ。
呪符、十字架、聖水などの直接的な武器ではない道具を使う戦闘法については、近接タイプに分類されているが、実際に戦う者たちにとってはこのような分類など何の意味も持たない。重要なのは、これらの戦闘法が“物理的に存在する相手”に対してのみ有効であるということだ。勿論、例外はある。
“物理的に存在しない相手”との戦いは、それなりの実力を持った者でないと戦いにすらならない。多くの場合、護符や結界陣を用いて締め出す、または封印するといった方法で対処されるが、前もって大掛かりな準備をしておく必要があり、不意に遭遇した際にはこの方法を選択することはできないのだ。
ソフィアの相手は、後者の“物理的に存在しない相手”だ。
どのような属性を持たせたとしても、マジック・ミサイルの類で決定的なダメージを与えるのは不可能であり、容姿や体型から予測できるように、剣や武道の達人でもない。
ソフィアが唯一可能であったのは、自分自身の存在を結界陣として空間を支配してしまうことだった。
支配された空間に包み込まれた相手は、陸に打ち上げられた魚に等しく、今ある体力または魔力を使い切ってしまえばそれまでとなる。
勿論、比類なき力を持つソフィアだからこそ可能な荒技だ。
広間では陣取り合戦が続いている。
炎の塊は、消える端から新たに発生し、全体数は減っていない。だが、その空間に漂う密度が目に見えて増していた。それは、広間内におけるソフィアの支配空間が広がっている証であった。
―― あと少し
ソフィアは握り締めた手に更なる力を込める。
……と、しわがれた老人の笑い声が響く。
「わしの負けのようだ」
直後に抵抗の気配は失せたが、ソフィアは気を抜かず出方を窺っている。
「警戒も当然よな。ならば名を告げよう、魔女の孫娘。わしを縛るが良い」
従属宣言も同然の申し出に、ソフィアは思わず息を飲んだ。
「わしの名は、イングウェイ・マーカスだ」
しわがれた老人の声は、怒気を含んだ叫びに変わった。
怒気は熱気に変わり、ドーム内のあちこちに小さな火花が散り始めた。火花は火に、火は炎に、炎は何もないはずの空中に留まり燃える。次第に数が増え、ドーム内のすべてが炎で照らされた。
床も壁も天井も、そのすべてが石で作られているため、燃え移って炎上し天井が焼け落ちてくるなどの心配は無用だが、通気孔もない地下ではあっという間に酸欠に陥ってしまう。
ソフィアは思考を廻らせる。
脱出する時間はある。ただし、脱出する場合は佐佑の救出に多大な時間を費やす必要が生まれる。
佐佑の救出に必要な道具は、このドーム状の広間にある。破壊されることはないだろうが、物理的に持ち出すことが不可能になる場合はある。
一般に石造建築に使われる石材は花崗岩で、その熔解温度は約千四百度。これは炎で出せない温度ではないため、熔けた岩石に埋もれてしまう可能性があるということだ。
そこでソフィアは思い至る。
これだけ自在に炎を発生させられる魔物を従えているのならば、もっと簡単に決着を付けられたはずだ、ということと、罠であったのならば、ここにあったはずの呪法の効果を打ち消す道具は、既に持ち出されている可能性が高い、ということだ。
ここには無いかもしれない。
頭で分かっていても、そう簡単に割り切れるものではない。
炎を扱う相手との戦いを選択するには、逃げ場の無い閉鎖的な空間はリスクが大きすぎる。酸欠はそれだけ大きなの脅威となるということだ。
「いや待てよ、今“Gladius”は陣中で身動きできぬということではないか」
しわがれた老人の声は、高らかに笑った。
「ははは! やったぞ! これで我が目的は達成できる。忌々しい魔女とも縁が切れる! ははは!」
次々に炎が弾け、その度に眩い光を放つ。
ソフィアはその隙をついて目的の道具の所在を探ったが、前回訪れた一ヶ月前とは並びが変わっていて、短時間では見つけるまでには至らない。
「そうか、そうか。ここにいるのは魔女の孫娘か」
自分に向けられた意識を感じて、ソフィアは身体を緊張させる。
「どんな姿かは分からぬが、きっと美しい姿をしておるのだろうな。あの魔女は若さと美しさを求めていたからな」
「どういうこと?」
背中に悪寒が走るのを感じて、ソフィアは思わず問い掛ける。
「あの魔女は、孫娘の身体を乗っ取る計画を立てていたのさ。ははは、醜く焼け爛れた身体を見ても、計画を続行するかどうかは分からんがね!」
「っ!!」
背後に危険を感じたソフィアは、咄嗟に身を捩って床に倒れ込んだ。
直前までソフィアの身体があった場所を、赤赤と燃える炎の塊が勢いよく通過する。そのまま石の壁に衝突して砕けたが、落下した破片は消えることなく床の上で燻り続けていた。
うつ伏せに倒れ込んだソフィアは、手や服や顎や頬に床の汚れが付いてしまったことに不快を覚え、ギリと歯を噛み締めて起き上がる。
「お相手して差し上げますわ!」
相手の姿は見えない。けれど戦う手段の見当は付いていた。
炎の塊は、直径十メートルほどのドーム状の広間内には万遍なく浮遊しているが、広間を出た回廊部にはただの一つも存在していない。広間と回廊との間には何の敷居もなく、炎の有無という明確な違いを無視するのは妙策とは言い難い。とはいえ、相手が力を振るえるのはこの広間のみ、と結論するのは早計だが、あまり時間を費やせない事情もあって、ソフィアは一気に勝負に出る。
思念体であっても、現世に干渉している以上、どこかに本体つまりは核が存在していることを表している。核は、物理的に触ることや見ることが不可能である場合がほとんどだが、同じく触ることや見ることが不可能な物質あるいは概念を使用することで、その存在を感知することは可能となる。
いわゆる精神エネルギー、魔力そのものだ。
ソフィアは、身に宿る魔力を解放する。そうして自らの存在を肥大化させ、周囲の空間を自身の領域へと塗り替えていった。
身体そのものが大きくなっているのではなく、ソフィア・クロウという存在を広げているのだ。身体のみではなく周囲の空間をも含めての、ソフィア・クロウという存在、というわけだ。
そうして残った自身の領域とならない空間に、思念体の本体がある。
思念体が行っている、炎の塊などの物体を万遍なく浮遊させることで自身の領域と成す方法は、物理的に空間を掌握する手法であり、生身の相手に対しては視覚的にも充分な重圧を掛けることができる。
ただし、勇気と覚悟とを兼ね備えた相手に対しては、効果は激減する。
ソフィアに触れた炎の塊は、音も無く消えていった。
一つ、二つ、と炎はその数を減らしていく。
「なるほど、そうくるか。ならば」
ごう、と音がした瞬間に、浮遊する炎の数が倍以上に増える。
だがソフィアは微塵も動じることなく、望むところよ、とばかりに小さな白い手を握り締めた。
魔物との戦い方は、複雑多岐に渡る。
経文を彫った剣、霊木から削り出した木刀などを使う近接タイプ。
ガン(銃)、ブリット(弾丸)、アロー(矢)など様々な呼称で知られるマジック・ミサイルの類を撃つ射撃タイプ。
呪符、十字架、聖水などの直接的な武器ではない道具を使う戦闘法については、近接タイプに分類されているが、実際に戦う者たちにとってはこのような分類など何の意味も持たない。重要なのは、これらの戦闘法が“物理的に存在する相手”に対してのみ有効であるということだ。勿論、例外はある。
“物理的に存在しない相手”との戦いは、それなりの実力を持った者でないと戦いにすらならない。多くの場合、護符や結界陣を用いて締め出す、または封印するといった方法で対処されるが、前もって大掛かりな準備をしておく必要があり、不意に遭遇した際にはこの方法を選択することはできないのだ。
ソフィアの相手は、後者の“物理的に存在しない相手”だ。
どのような属性を持たせたとしても、マジック・ミサイルの類で決定的なダメージを与えるのは不可能であり、容姿や体型から予測できるように、剣や武道の達人でもない。
ソフィアが唯一可能であったのは、自分自身の存在を結界陣として空間を支配してしまうことだった。
支配された空間に包み込まれた相手は、陸に打ち上げられた魚に等しく、今ある体力または魔力を使い切ってしまえばそれまでとなる。
勿論、比類なき力を持つソフィアだからこそ可能な荒技だ。
広間では陣取り合戦が続いている。
炎の塊は、消える端から新たに発生し、全体数は減っていない。だが、その空間に漂う密度が目に見えて増していた。それは、広間内におけるソフィアの支配空間が広がっている証であった。
―― あと少し
ソフィアは握り締めた手に更なる力を込める。
……と、しわがれた老人の笑い声が響く。
「わしの負けのようだ」
直後に抵抗の気配は失せたが、ソフィアは気を抜かず出方を窺っている。
「警戒も当然よな。ならば名を告げよう、魔女の孫娘。わしを縛るが良い」
従属宣言も同然の申し出に、ソフィアは思わず息を飲んだ。
「わしの名は、イングウェイ・マーカスだ」
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近