剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
* * *
「シェリル、クローディアに本部に戻るように伝えてくれ」
応接室の扉を開けた佐佑は、すぐそこで中の様子を窺っていたシェリルに声を掛けた。
応接室は防音処理が施されているため、扉に耳を押し当てていたとしても盗み聞きすることはできないのだが、分かっていても試さずには居られないのが人情というものだ。
「クローディアはどこにいるの?」
「俺のマンションだ」
佐佑とクローディアの関係は公然の秘密だが、全員が知っているわけでもないため、自然と声が小さくなる。
「いなかったわよ? クサナギが戻ってすぐに連絡を入れたのだけど」
「やられた」
チィ、と舌打ちをした佐佑は、応接の中で寛いでいたソフィアを呼んだ。
「バニラパフェをご馳走してやる。いくぞ」
そう言い放った佐佑は、返事を待つことなく足早にその場を去り、ソフィアはパタパタと足音を立てて小走りにその背中を追った。
「どうしたの?」
佐佑に追いついたソフィアが、開口一番に問う。
「リンダ・クロウが行方を眩ました」
「それは焦って飛び出すほどのことには思えないわ」
「一緒にいたクローディアとも連絡が付かない」
「あなたの大事な人なのね」
佐佑は何も答えなかったが、その沈黙は充分に肯定の意味を表していた。
「マセガキめ」
車に乗り込み、エンジンに火を入れる。
「どこへ?」
ソフィアがシートベルトを締めたと同時に、佐佑は車を急発進させた。後方へと掛かる荷重を堪え切れず、ソフィアはシートに頭をぶつける。
「マンションに戻る」
タイヤと車体を軋ませながらロンドンの街を疾走する車の助手席で、ソフィアは初めて体験するスピード感に半分ずつの恐怖と快感を覚えた。
「お婆さまが手掛かりを残しているわけないわ」
「しかし他に当てはない」
佐佑が少し早口になっていることに気付いたソフィアは、常に冷静であったこの男でも自分を見失うことがあるのか、と一人納得した。
「見当はついてい……るわっ!?」
突如掛けられた急制動によってソフィアは前方につんのめった。シートベルトを締めていなければ、フロントガラスへダイブしていたところだ。
「どこだ」
質問の体を成していない佐佑の言葉は、一切の脱線を許さぬ迫力を持って発せられていた。ここではぐらかすような真似をすれば、生涯に渡って後悔し続けることになるだろう。――それでも。
それでもソフィアは安易に教えることはできなかった。
「それを先にお訊ねになるのは、アンフェアではありませんか?」
そうして佐佑は、自分が冷静さを欠いていたことに気付く。一時間前までの佐佑ならば、クローディアが人質として連れ去られてしまっても、取り乱すことなく冷静に対処していただろう。
つまりソフィアは、協力要請に対しての返答を求めているのだ。味方なのか敵なのか、はたまたどちらでもない傍観者なのか。しかし、佐佑の答えが何であろうとも、ソフィアの答えは変わらない。教えないこともアンフェアになるからだ。
だが今の佐佑は、この一件と自分との関係をソフィアの口から聞かされている。加えて、リンダ・クロウがクローディアを連れて行方を眩ませたことは、ソフィアの話が真実であることを裏付けていた。
あるいは、想像もつかない更なる裏が隠されているのかもしれないが、今の佐佑にはその可能性を計る余裕はなかった。
後方で車のクラクションが鳴らされているが、車内の二人の耳には届いていない。いや、意図的に遮断されているのだ。
どちらが視線を送り、どちらが視線を受け止めていたのかは定かではないが、無言で視線を交錯させること十数秒、佐佑が口元を緩めると、それに合わせてソフィアも首を少し傾げて口元を緩めた。
「マンションへ戻る」
「分かりました」
佐佑はゆっくりとアクセルを踏み込み、車を発進させた。
それからマンションに着くまで、二人は共に無言だった。エレベーターを降り、マンションの部屋へと足を踏み入れてもその状態は続いていたが、緊迫したものでも気まずいものでもない。この沈黙の時間は、両者の了解の上に成り立っていた。
部屋に入った佐佑は、脱いだジャケットをリビングのソファに放り、そのままキッチンへと向かった。
ソフィアは佐佑の後ろに付いてリビングまで進んだ後、ジャケットが放られていないもう一つのソファに腰を下ろした。ソフィアの位置からは、キッチンのカウンター越しに湯を沸かす佐佑の背中が見える。ベランダで栽培されている植物群にも興味を引かれたが、それ以上にソフィアの知的探究心を刺激したのは、部屋に施されている結界であった。
ソフィアは、足を踏み入れた瞬間に施術された結界の存在に気付いた。ソフィアが知っている日本式の結界術のうちで、比較対象にできるのは直接触れた大英博物館の日本ブースに施術されていた結界だけなのだが、佐佑のマンションに施されているのは、それよりも遥かに高度で強力な方術によるものであった。
通常、この手の技術は秘匿される。理由はジグソーパズルを思い浮かべてもらえればすぐに察しが付くだろう。パズルの難易度を上げる最も簡単な方法は、完成図を示さないことだ。
興味はあれど、いくら褒めちぎって持ち上げてみせたところで、佐佑が口を滑らせる相手ではないのは分かりきっている。そんな淡い希望にすがるぐらいならば、アンテナを張り巡らせて少しでも多くの情報を得ることに集中した方が遥かに時間を有効に活用できる。
ティーカップに湯が注がれる水音がソフィアの耳に届く。続いて冷蔵庫が開け閉めされた後、木製のトレイを手にした佐佑がリビングに出てきた。
トレイには、一杯の紅茶とオレンジジュースが注がれたコップが載せられていた。
「セニョリーナはコーヒーの方がお好みだったかな?」
セニョリーナ(スィニョリーナ)はイタリア語における未婚女性に対する呼び名であり、イタリア人の多くはエスプレッソに代表されるコーヒーを好んでいる。つまり、佐佑は皮肉を言っているのだ。
ちなみに、よく似た語であるセニョリータはスペイン語であり、イタリア語ではない。
「てっきりバニラパフェをご馳走して下さるのかと思っていたのですが」
ソフィアも負けじとやり返しつつ、コップに手を伸ばした。
そうして二人が一口ずつ飲んだ後、張り詰めた空気が室内を支配する中で、佐佑が先に口を開いた。
「クローディアは、いつも食器類を俺とは違う並べ方で置くんだ。何度言っても直りゃしない。俺が出たときに使っていた食器類が、クローディアの並べ方で置かれている。食器用布巾の乾き具合から、食器を洗って四時間前後が経過している。争った形跡はなく、部外者の侵入は許していない。何らかの魔術が行使された様子もないことから、リンダや第三者が連れ去ったのではなく、クローディアが自分の意思で同行したと考えられる。その上で、まだ連絡がないということは、移動中か部屋を出た後に拉致されてしまったのか」
そこまでを一息に話した佐佑は、ソフィアに視線を預けて反応を待った。
佐佑は、ソフィアが見当をつけているという場所が、ここから四時間以上離れた場所という条件を合致するのかどうかと問いかけているのだ。
「シェリル、クローディアに本部に戻るように伝えてくれ」
応接室の扉を開けた佐佑は、すぐそこで中の様子を窺っていたシェリルに声を掛けた。
応接室は防音処理が施されているため、扉に耳を押し当てていたとしても盗み聞きすることはできないのだが、分かっていても試さずには居られないのが人情というものだ。
「クローディアはどこにいるの?」
「俺のマンションだ」
佐佑とクローディアの関係は公然の秘密だが、全員が知っているわけでもないため、自然と声が小さくなる。
「いなかったわよ? クサナギが戻ってすぐに連絡を入れたのだけど」
「やられた」
チィ、と舌打ちをした佐佑は、応接の中で寛いでいたソフィアを呼んだ。
「バニラパフェをご馳走してやる。いくぞ」
そう言い放った佐佑は、返事を待つことなく足早にその場を去り、ソフィアはパタパタと足音を立てて小走りにその背中を追った。
「どうしたの?」
佐佑に追いついたソフィアが、開口一番に問う。
「リンダ・クロウが行方を眩ました」
「それは焦って飛び出すほどのことには思えないわ」
「一緒にいたクローディアとも連絡が付かない」
「あなたの大事な人なのね」
佐佑は何も答えなかったが、その沈黙は充分に肯定の意味を表していた。
「マセガキめ」
車に乗り込み、エンジンに火を入れる。
「どこへ?」
ソフィアがシートベルトを締めたと同時に、佐佑は車を急発進させた。後方へと掛かる荷重を堪え切れず、ソフィアはシートに頭をぶつける。
「マンションに戻る」
タイヤと車体を軋ませながらロンドンの街を疾走する車の助手席で、ソフィアは初めて体験するスピード感に半分ずつの恐怖と快感を覚えた。
「お婆さまが手掛かりを残しているわけないわ」
「しかし他に当てはない」
佐佑が少し早口になっていることに気付いたソフィアは、常に冷静であったこの男でも自分を見失うことがあるのか、と一人納得した。
「見当はついてい……るわっ!?」
突如掛けられた急制動によってソフィアは前方につんのめった。シートベルトを締めていなければ、フロントガラスへダイブしていたところだ。
「どこだ」
質問の体を成していない佐佑の言葉は、一切の脱線を許さぬ迫力を持って発せられていた。ここではぐらかすような真似をすれば、生涯に渡って後悔し続けることになるだろう。――それでも。
それでもソフィアは安易に教えることはできなかった。
「それを先にお訊ねになるのは、アンフェアではありませんか?」
そうして佐佑は、自分が冷静さを欠いていたことに気付く。一時間前までの佐佑ならば、クローディアが人質として連れ去られてしまっても、取り乱すことなく冷静に対処していただろう。
つまりソフィアは、協力要請に対しての返答を求めているのだ。味方なのか敵なのか、はたまたどちらでもない傍観者なのか。しかし、佐佑の答えが何であろうとも、ソフィアの答えは変わらない。教えないこともアンフェアになるからだ。
だが今の佐佑は、この一件と自分との関係をソフィアの口から聞かされている。加えて、リンダ・クロウがクローディアを連れて行方を眩ませたことは、ソフィアの話が真実であることを裏付けていた。
あるいは、想像もつかない更なる裏が隠されているのかもしれないが、今の佐佑にはその可能性を計る余裕はなかった。
後方で車のクラクションが鳴らされているが、車内の二人の耳には届いていない。いや、意図的に遮断されているのだ。
どちらが視線を送り、どちらが視線を受け止めていたのかは定かではないが、無言で視線を交錯させること十数秒、佐佑が口元を緩めると、それに合わせてソフィアも首を少し傾げて口元を緩めた。
「マンションへ戻る」
「分かりました」
佐佑はゆっくりとアクセルを踏み込み、車を発進させた。
それからマンションに着くまで、二人は共に無言だった。エレベーターを降り、マンションの部屋へと足を踏み入れてもその状態は続いていたが、緊迫したものでも気まずいものでもない。この沈黙の時間は、両者の了解の上に成り立っていた。
部屋に入った佐佑は、脱いだジャケットをリビングのソファに放り、そのままキッチンへと向かった。
ソフィアは佐佑の後ろに付いてリビングまで進んだ後、ジャケットが放られていないもう一つのソファに腰を下ろした。ソフィアの位置からは、キッチンのカウンター越しに湯を沸かす佐佑の背中が見える。ベランダで栽培されている植物群にも興味を引かれたが、それ以上にソフィアの知的探究心を刺激したのは、部屋に施されている結界であった。
ソフィアは、足を踏み入れた瞬間に施術された結界の存在に気付いた。ソフィアが知っている日本式の結界術のうちで、比較対象にできるのは直接触れた大英博物館の日本ブースに施術されていた結界だけなのだが、佐佑のマンションに施されているのは、それよりも遥かに高度で強力な方術によるものであった。
通常、この手の技術は秘匿される。理由はジグソーパズルを思い浮かべてもらえればすぐに察しが付くだろう。パズルの難易度を上げる最も簡単な方法は、完成図を示さないことだ。
興味はあれど、いくら褒めちぎって持ち上げてみせたところで、佐佑が口を滑らせる相手ではないのは分かりきっている。そんな淡い希望にすがるぐらいならば、アンテナを張り巡らせて少しでも多くの情報を得ることに集中した方が遥かに時間を有効に活用できる。
ティーカップに湯が注がれる水音がソフィアの耳に届く。続いて冷蔵庫が開け閉めされた後、木製のトレイを手にした佐佑がリビングに出てきた。
トレイには、一杯の紅茶とオレンジジュースが注がれたコップが載せられていた。
「セニョリーナはコーヒーの方がお好みだったかな?」
セニョリーナ(スィニョリーナ)はイタリア語における未婚女性に対する呼び名であり、イタリア人の多くはエスプレッソに代表されるコーヒーを好んでいる。つまり、佐佑は皮肉を言っているのだ。
ちなみに、よく似た語であるセニョリータはスペイン語であり、イタリア語ではない。
「てっきりバニラパフェをご馳走して下さるのかと思っていたのですが」
ソフィアも負けじとやり返しつつ、コップに手を伸ばした。
そうして二人が一口ずつ飲んだ後、張り詰めた空気が室内を支配する中で、佐佑が先に口を開いた。
「クローディアは、いつも食器類を俺とは違う並べ方で置くんだ。何度言っても直りゃしない。俺が出たときに使っていた食器類が、クローディアの並べ方で置かれている。食器用布巾の乾き具合から、食器を洗って四時間前後が経過している。争った形跡はなく、部外者の侵入は許していない。何らかの魔術が行使された様子もないことから、リンダや第三者が連れ去ったのではなく、クローディアが自分の意思で同行したと考えられる。その上で、まだ連絡がないということは、移動中か部屋を出た後に拉致されてしまったのか」
そこまでを一息に話した佐佑は、ソフィアに視線を預けて反応を待った。
佐佑は、ソフィアが見当をつけているという場所が、ここから四時間以上離れた場所という条件を合致するのかどうかと問いかけているのだ。
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近