剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-
二人のいる場所が、ソフィアの手で作り上げられた“肉体と精神の狭間の世界”というのは本当のことだ。しかし、ソフィアはその直後に嘘を吐いた。
肉体と精神の狭間の世界とは、目と目が合っただけで意思の疎通が行われ、言葉で語らずとも分かり合える瞬間、アイコンタクトや阿吽の呼吸とも言われる、刹那の時を切り取った世界。ソフィア自身が口にしたように、目を覚ます寸前に見る夢のようなものだ。
対象の集中力が高ければ高いほど、この世界に引き込むのは容易となり、引き込まれた対象は、ある種の催眠状態となるために、暗示に掛かりやすい。
暗示によって、力が発現しない、と思い込まされていただけなのだが、本人が効果を確認できなければ、その力を持っていないのと同義となる。
ソフィアは、自分がルールであり、自分以外は無力である、という暗示を佐佑に掛けていたのだ。
その暗示を破った。ただそれだけのことだ。
日本の忍者は、己の舌を噛んだ痛みで幻術を打ち破ったと言われているが、佐佑はそんなことはしていない。
佐佑は、暗示を記憶から消し去ったのだ。“暗示を掛けられたこと”を記憶から消したのではなく、“掛けられた暗示そのもの”を記憶から消し去ることで、暗示の効力を消滅させたのだ。
佐佑には、その物質が持つ“意味”を具現・実行する力があり、“忘却”の意味を持つ乾物を使用することで、記憶操作を可能とする。
その行為には、もう一つ別の目的があった。
本当に無効化しているのか、無効化しているように見せかけているのか、どちらなのかを確認するための行為でもあったのだ。
―― 本当に力が無効化されているのならば、さっさと頭を下げて赦してもらうに限る。
頭を下げないことに対するこだわりを持ち合わせていない佐佑は、心底そう思っていた。
相手が一瞬で自分を無力化するほどの実力を持っているならば、それは敬意を払うに値する相手であり、素直に負けを認めることは、己を更なる成長へと誘う道標ともなる。
佐佑が口にしたのはグラジオラスの球根を乾燥させたものであり、グラジオラスには“忘却”という花言葉がある。そして、他にもう一つ“密会”という意味もある。
“忘却”の意味を実行し、ソフィアに掛けられた暗示を消し去ったあと、“密会”の意味を実行し、ソフィアが作った狭間の世界の中に、新たな狭間の世界“密会場所”を作ったというわけだ。
そして、ソフィアの世界がそうであったように、佐佑が作り上げた“密会場所”の中では、佐佑がルールとなる。
負けを意識してしまった後では、どれだけ強がりを叫んでみたとしても、勝敗が覆ることはない。言霊を使う者同士の戦いとはそういうものだ。当然ながら、ソフィアもそれを知っている。
「その若さで言霊を使えるのには驚いたが」
佐佑は素直な気持ちで感嘆の言葉を述べたのだが、幼いソフィアはそれを受け入れることができなかった。
「得た勝利を誇るのは構わないが、得る前に勝ち誇るのは誉められたことじゃあないな。自己に陶酔するのは、風呂上りの鏡の前だけで充分だ」
「負けたわ、“Gladius”」
ソフィアは晴れやかな笑みを浮かべ、自らの負けを宣言した。
「そもそも、戦う理由はないだろ」
白色の世界にひびが入る。やがてそれは剥がれ落ち、元の薄暗い大英博物館正面玄関前に戻っていった。
風化して塵となっていたタキタが元の姿を取り戻したのを確認した佐佑は、すっかり意気消沈したソフィアに歩み寄った。
「んじゃ、ま、話を聞かせてもらおうか」
「え?」
「回りくどいのはキライなんだ」
佐佑は、にっと白い歯を見せて笑った。
* * *
国の内外から訪れるツアー客、学生の見学、新婚旅行。数多の理由で訪れた数多の人々が、ただすれ違う。大英博物館の中庭グレートコートを行く人波は、天窓から覗く霧のことなど意にも介さずうねり続けていた。
雑踏を避けてグレートコートのオープンカフェに腰を落ち着けた佐佑は、にこやかにパフェを食すソフィアをぼんやりと眺めていた。
「あなたもお頼みになればよろしいじゃありませんか」
「折角だが、遠慮しておく」
「甘いものはお嫌いで?」
「そういうことじゃない」
佐佑の手元には一杯の紅茶が置かれている。控え目な湯煙を立ち上らせるそれは、ソフィアがパフェの半分を食べ終えた今も口を付けられていない。
「では?」
ブルーベリーのシャーベットにアイスクリームを絡ませて、一口分をスプーンで運ぶ。その度に浮かべられるソフィアの微笑みは、天使の微笑みと呼んでも何ら差し支えのないものだ。
だが、そんな微笑みを目の前にしながらも、佐佑は酷く不機嫌だった。
「家の外で何かを口に入れようとするとな、決まって騒ぎが起きるんだ」
佐佑は、ソフィアがパフェを食べ終わるの待ってから、紅茶を口に運ぶつもりだ。アイスティを注文していないのは、氷が解けて味が変わってしまうのを避けるためだ。
「それはさぞお困りでしょう」
「まったくだ」
何か良からぬ出来事の気配を、二人ともが感じていた。故に、本来の用件であったソフィアの話を聞くことなく、こうして様子を窺っているのだ。
「あら?」
二人に向けられた敵意が、すぐそこにまで迫っていた。
「気付いたか」
「こんな公衆の面前で?」
ただし、それはソフィアが日本ブースで察知したものとは別物であり、人の類が発するものだ。尤も、ソフィアが感知した気配は、大英博物館常駐の警備担当者が放った使い魔のものだ。
「それはあちらさん次第。心当りは?」
「魔性に命を狙われる身であっても、人に恨まれる覚えはありません」
「ほぉ」
「何か?」
茶化したような佐佑の物言いに、ソフィアは強い調子で問い返した。
「よくも言い切れたものだと感心したんだ」
佐佑は言い訳に似た補足を口にしたが、ソフィアの機嫌を修復するには至らなかった。
ソフィアはこれ見よがしなため息を吐いて、嫌な大人、と呟いた。
「それで、あなたのほうの心当りは?」
「そうだな、指折り数え挙げられる程度には」
ソフィアはアイスクリームを口へと運んでいたスプーンをパフェの容器に戻し、再び大きなため息を吐いた。
「素人を相手にしなければならないなんて……」
「問答無用で仕掛けられたんじゃあ、相手せざるを得まい?」
「厄介事に巻き込まないでくださる?」
「俺だって巻き込まれた被害者なんだ」
ソフィアが問答無用で佐佑に仕掛けたのは、つい先ほどの出来事だ。佐佑はそれに関して“被害者”だと主張しているのだ。
「だ、誰も協力しないなんて言ってないでしょう?」
「勿論だとも」
敢えて噛み合わない会話を行い、にっと白い歯を見せて笑うことで、強引にその帳尻を合わせてしまうのが佐佑の常套手段だ。
「本当に嫌な大人」
「年齢を重ねれば、皆こうなる」
「差し上げますわ」
ソフィアはそう言って、パフェの容器を差し出した。
「アイスが解けてしまう前に終わらせて」
「少なくとも紅茶が冷めることはない」
佐佑は、無造作に挿し込まれたスプーンを手に取ると、ブルーベリーシャーベットに浮かぶアイスクリームに挿し込んだ。
肉体と精神の狭間の世界とは、目と目が合っただけで意思の疎通が行われ、言葉で語らずとも分かり合える瞬間、アイコンタクトや阿吽の呼吸とも言われる、刹那の時を切り取った世界。ソフィア自身が口にしたように、目を覚ます寸前に見る夢のようなものだ。
対象の集中力が高ければ高いほど、この世界に引き込むのは容易となり、引き込まれた対象は、ある種の催眠状態となるために、暗示に掛かりやすい。
暗示によって、力が発現しない、と思い込まされていただけなのだが、本人が効果を確認できなければ、その力を持っていないのと同義となる。
ソフィアは、自分がルールであり、自分以外は無力である、という暗示を佐佑に掛けていたのだ。
その暗示を破った。ただそれだけのことだ。
日本の忍者は、己の舌を噛んだ痛みで幻術を打ち破ったと言われているが、佐佑はそんなことはしていない。
佐佑は、暗示を記憶から消し去ったのだ。“暗示を掛けられたこと”を記憶から消したのではなく、“掛けられた暗示そのもの”を記憶から消し去ることで、暗示の効力を消滅させたのだ。
佐佑には、その物質が持つ“意味”を具現・実行する力があり、“忘却”の意味を持つ乾物を使用することで、記憶操作を可能とする。
その行為には、もう一つ別の目的があった。
本当に無効化しているのか、無効化しているように見せかけているのか、どちらなのかを確認するための行為でもあったのだ。
―― 本当に力が無効化されているのならば、さっさと頭を下げて赦してもらうに限る。
頭を下げないことに対するこだわりを持ち合わせていない佐佑は、心底そう思っていた。
相手が一瞬で自分を無力化するほどの実力を持っているならば、それは敬意を払うに値する相手であり、素直に負けを認めることは、己を更なる成長へと誘う道標ともなる。
佐佑が口にしたのはグラジオラスの球根を乾燥させたものであり、グラジオラスには“忘却”という花言葉がある。そして、他にもう一つ“密会”という意味もある。
“忘却”の意味を実行し、ソフィアに掛けられた暗示を消し去ったあと、“密会”の意味を実行し、ソフィアが作った狭間の世界の中に、新たな狭間の世界“密会場所”を作ったというわけだ。
そして、ソフィアの世界がそうであったように、佐佑が作り上げた“密会場所”の中では、佐佑がルールとなる。
負けを意識してしまった後では、どれだけ強がりを叫んでみたとしても、勝敗が覆ることはない。言霊を使う者同士の戦いとはそういうものだ。当然ながら、ソフィアもそれを知っている。
「その若さで言霊を使えるのには驚いたが」
佐佑は素直な気持ちで感嘆の言葉を述べたのだが、幼いソフィアはそれを受け入れることができなかった。
「得た勝利を誇るのは構わないが、得る前に勝ち誇るのは誉められたことじゃあないな。自己に陶酔するのは、風呂上りの鏡の前だけで充分だ」
「負けたわ、“Gladius”」
ソフィアは晴れやかな笑みを浮かべ、自らの負けを宣言した。
「そもそも、戦う理由はないだろ」
白色の世界にひびが入る。やがてそれは剥がれ落ち、元の薄暗い大英博物館正面玄関前に戻っていった。
風化して塵となっていたタキタが元の姿を取り戻したのを確認した佐佑は、すっかり意気消沈したソフィアに歩み寄った。
「んじゃ、ま、話を聞かせてもらおうか」
「え?」
「回りくどいのはキライなんだ」
佐佑は、にっと白い歯を見せて笑った。
* * *
国の内外から訪れるツアー客、学生の見学、新婚旅行。数多の理由で訪れた数多の人々が、ただすれ違う。大英博物館の中庭グレートコートを行く人波は、天窓から覗く霧のことなど意にも介さずうねり続けていた。
雑踏を避けてグレートコートのオープンカフェに腰を落ち着けた佐佑は、にこやかにパフェを食すソフィアをぼんやりと眺めていた。
「あなたもお頼みになればよろしいじゃありませんか」
「折角だが、遠慮しておく」
「甘いものはお嫌いで?」
「そういうことじゃない」
佐佑の手元には一杯の紅茶が置かれている。控え目な湯煙を立ち上らせるそれは、ソフィアがパフェの半分を食べ終えた今も口を付けられていない。
「では?」
ブルーベリーのシャーベットにアイスクリームを絡ませて、一口分をスプーンで運ぶ。その度に浮かべられるソフィアの微笑みは、天使の微笑みと呼んでも何ら差し支えのないものだ。
だが、そんな微笑みを目の前にしながらも、佐佑は酷く不機嫌だった。
「家の外で何かを口に入れようとするとな、決まって騒ぎが起きるんだ」
佐佑は、ソフィアがパフェを食べ終わるの待ってから、紅茶を口に運ぶつもりだ。アイスティを注文していないのは、氷が解けて味が変わってしまうのを避けるためだ。
「それはさぞお困りでしょう」
「まったくだ」
何か良からぬ出来事の気配を、二人ともが感じていた。故に、本来の用件であったソフィアの話を聞くことなく、こうして様子を窺っているのだ。
「あら?」
二人に向けられた敵意が、すぐそこにまで迫っていた。
「気付いたか」
「こんな公衆の面前で?」
ただし、それはソフィアが日本ブースで察知したものとは別物であり、人の類が発するものだ。尤も、ソフィアが感知した気配は、大英博物館常駐の警備担当者が放った使い魔のものだ。
「それはあちらさん次第。心当りは?」
「魔性に命を狙われる身であっても、人に恨まれる覚えはありません」
「ほぉ」
「何か?」
茶化したような佐佑の物言いに、ソフィアは強い調子で問い返した。
「よくも言い切れたものだと感心したんだ」
佐佑は言い訳に似た補足を口にしたが、ソフィアの機嫌を修復するには至らなかった。
ソフィアはこれ見よがしなため息を吐いて、嫌な大人、と呟いた。
「それで、あなたのほうの心当りは?」
「そうだな、指折り数え挙げられる程度には」
ソフィアはアイスクリームを口へと運んでいたスプーンをパフェの容器に戻し、再び大きなため息を吐いた。
「素人を相手にしなければならないなんて……」
「問答無用で仕掛けられたんじゃあ、相手せざるを得まい?」
「厄介事に巻き込まないでくださる?」
「俺だって巻き込まれた被害者なんだ」
ソフィアが問答無用で佐佑に仕掛けたのは、つい先ほどの出来事だ。佐佑はそれに関して“被害者”だと主張しているのだ。
「だ、誰も協力しないなんて言ってないでしょう?」
「勿論だとも」
敢えて噛み合わない会話を行い、にっと白い歯を見せて笑うことで、強引にその帳尻を合わせてしまうのが佐佑の常套手段だ。
「本当に嫌な大人」
「年齢を重ねれば、皆こうなる」
「差し上げますわ」
ソフィアはそう言って、パフェの容器を差し出した。
「アイスが解けてしまう前に終わらせて」
「少なくとも紅茶が冷めることはない」
佐佑は、無造作に挿し込まれたスプーンを手に取ると、ブルーベリーシャーベットに浮かぶアイスクリームに挿し込んだ。
作品名:剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】- 作家名:村崎右近