さくらいろの日々。
顔をしかめるとゆかりんは素直に首をすくめた。
「んーと、雪子ちゃんの好きな人はどんな人?」
反省しても堪えない女、ゆかりんは優しく笑って今度はゆっきーに別の質問をした。柔らかい春の光は温かいのに、踊り場の空気はなぜかひんやりしている。制服を通して伝わる背中のコンクリートの感触が今日はどこかよそよそしい。まだわたしたちは卒業生ではないのに。
「知らない」
「えっ?」
さらっと返事が戻ってきて、ゆかりんは不意をくらってびっくりした猫のように目を丸くし背を伸ばした。
「どどどどどういうこと?」
「そんなにあわてることかな?」
さらに問いを重ねるゆかりんにゆっきーは苦笑をもらした。
「話したことがないから、わからない」
ゆっきーは長い髪を揺らして首をかしげるようにした。
「半径三メートル以内の近くに行ったこともない。だからどんな人なのか知らない」
「へ、へえ……」
ゆかりんはぱちくりと瞬きをした後、それからやっぱりにっこりとした。
「でも、好きなんだね」
「うん」
「えへへ。そっか。じゃあこの手紙渡して、それで相手の人が雪子ちゃんのことを知ってくれたらいいね」
ゆっきーは答えずただ笑って、そしてシャーペンを持ち直す。わたしは黙ったまま二個目のマドレーヌを手に取った。手作りのマドレーヌは作った人とよく似て、生地がしっとりしていてそして甘い。
それからしばらく主にゆかりんとわたしが、おしゃべりをした。明日の授業のこと。春休みのこと。それから三年になった後のクラス分けの話。
「また三人が同じクラスになる奇跡がおきるといいねえ」
「安い奇跡だなあ」
妙にしみじみと言うのに思わず突っ込んでしまったけれど、ゆかりんは不本意そうに唇を尖らせる。
「そう? 地球上にこれだけたくさんの人がいて、その中で気があった人とわずかにでも一緒にすごせる時間があるのって十分奇跡だと思うんだけど」
「そ、そう、ですね」
真面目な反論になんとなくたじろいで、わたしは後ろの手すりにもたれる。ゆっきーがおかしそうに笑った。
「判定。どっちも正しいと思います」
「えー?」
口を挟んだゆっきーにゆかりんは不満の声を上げた。
「ゆかりさん。わたしたち三人が一緒にいることなんて奇跡なんてそんなたいそうなことじゃあないと思わないかい?」
「そうだけど。でもそうかなあ。うーんうーん」
「当たり前のことだから奇跡なんだよ」
「なんか……わたしが言うのもなんだけど騙そうとされてる気がする……」
「そうよね、そうよねさくらちゃん」
わたしの加勢を受けてゆかりんは意気込んだが、もうゆっきーは何も言わず相変わらずの涼しい顔で三枚目のルーズリーフの途中でペンを止めた。
「完成」
「おお、おめでとー」
ゆかりんが手を叩いて労をねぎらった。わたしは三つ目のマドレーヌを食べるかどうか迷い、そのうちに外が少し騒がしくなった。
「あ」
背をそらして窓の隙間から校庭をのぞいたゆかりんが明るく笑う。
「終わったみたいだよー。卒業式」
確かに校庭にはぞろぞろと今日の主賓と思われる制服の胸に花飾りをつけた生徒たちが体育館から出てくるところだった。
「よっし。そろそろ行こっか」
ゆかりんは弾かれたようにぴょんと立ち上がった。プリーツのスカートの裾を手で払いながらわたしたちを見たけれど、わたしはもとよりゆっきーも座ったままの姿勢で変わらない。
「行かないの?」
「別に急がないから……」
「右に同じく」
「もー、さくらちゃんも雪子ちゃんもほんとに怠惰だなあ」
そういわれても別にまだ帰れるわけではないし、卒業生たちと別れを惜しむ必要がない以上今下に降りても所在がないだけなのだった。
「ボタンをもらう人はお急ぎを?」
言いながらわたしが手のひらを階段に向けると、ゆかりんは拗ねたような照れたような表情を浮かべた。
「もらわないもーん」
「あれ、そうなの?」
「だって、まだ公立高校の受験終わってないし」
「たしかに」
わたしは納得してうなずいた。
「もらわれる先輩たちのお母さんは、受験のためだけにわざわざボタン縫い直すのかね。予定外に息子がもてて予備がないとかいう家庭はあるんだろうか?」
ゆっきーは折りたたんだルーズリーフを脇によけて真面目な顔でつぶやいた。
「えーと、予備なかったら買うだけじゃないの」
「そのためにだけにかい。大変だな」
人差し指をこめかみのうえにあてて、首をかしげたゆかりんに、ゆっきーは肩をすくめる。
「でもきっとそういうのはいい忙しさなんじゃないの? お母さんだってモテない息子よりモテる息子のほうがうれしいはずだもん」
「なるほど。それだけわかっててもキミはもらいにいかないと」
くすりとゆっきーが笑うと、ゆかりんは真っ赤になった。
「別にそんな思い出いらないもの」
「確かにそうだ」
二人のやりとりを聞きながら、わたしは自分のナップサックを引き寄せる。ウーロン茶のペットボトルを持ってきたのだった。どうにも甘いマドレーヌは美味しいけれど食後は口の中がもさもさする。ウーロン茶を三分の一ほど一息に喉に流し込んだ。
「ま、いいからとりあえず行きなよ? センパイ待ってらっさるんじゃ?」
「もう」
からかわれたと思ったのかゆかりんはちょっとだけふくれた。そして上靴の音も軽やかに階段を一気に半分駆け降りた。
そして不意に振り返る。ちょっとぽかんとしたような、不思議そうな顔で。
「どした?」
何か忘れ物かと辺りを見回しながら尋ねると。ゆかりんは。
「ねえ雪子ちゃんの手紙の相手は、三年生なんじゃないの?」
やっぱりど真ん中ストレートで勝負をしかけてくるのだった。
「ふふふふふ」
ゆっきーは笑うだけで肯定も否定もしない。ゆかりんはいつもいつもおっとりしていて鈍いくらいでイライラする時もたまーにあるのだけれど、時々、ほんっとーに時々こうして鋭いことを言ってきてやっぱりそれはそれでちょっとだけイライラするのだった。
「渡さないの?」
ゆかりんは悪意も何もない柔らかな声で重ねて質問をした。
「もちろん渡すよ?」
あっさりとゆっきーはうなずいた。
「そっか」
納得したのかゆかりんもうなずいた。
「じゃあまたあとでね」
ひらひら、と手を振ってまたゆかりんは階段をおりていく。わたしとゆっきーだけが屋上に続く階段の踊り場に残された。
「渡すのか?」
「なんで?」
思わず確認してしまうと、ゆっきーはおかしそうに笑った。なんでと言われても困るけれど、渡すのかどうか疑問だっただけだ。
ゆっきーは自分の書いたルーズリーフの手紙を取り、眺めなおしながら満足そうにしている。
「我ながらよくも書いたものだよ。長文乙だ」
言いながらゆっきーは、何の躊躇もなく惜しげもなく真っ二つに破った。
「げ」
渡すといった端からなにをしてるのかと驚くわたしを尻目にゆっきーはさらに細かくびりびりと破っていく。
「さくらさん」
「ハイ」
ゆっきーの口角は上がっているけれど笑っているのかどうなのか判別しづらかった。だからわたしは慎重に返事をする。
「キミはわりと嫌な人だ」
「……それはどうも」。
「でも、いい人だ」
「どっちだよ」
「ふふ」