十二月九日
明るい林に両側を挟まれているせいでとても親密な感じのする道だった。だが暗闇の中ではそんな親密さはこれっぽっちもなくなり、進むにつれ道幅はどんどん狭くなっていくような感覚に襲われた。そしていまにも両側の真っ暗な林から手が伸びてきて体を掴まれるんじゃないかという恐怖が押し寄せてきた。林からは時々なにかがガサッ、ガサッと僕らを見つめながら追ってくるような音がする。音のした方へ懐中電灯を向ける勇気はあるはずもなく、ただただ足元の前方を照らして絶対に横を見ないようにして歩いた。自分の胸に手を当てると、心臓がすごい早さで鼓動を打っているのが分かった。このまま先へ進んだら、もう二度と普通の世界に帰れなくなるんじゃないかと思わずにはいられなかった。本当にそう思った。
しばらくして、真っ暗闇で距離もよくわからない遠くに黄色い光が二つ浮かんで揺れているのに気付いた。人魂かと思って一瞬ドキッとしたが、すぐに先にスタートしたペアの懐中電灯だと気付いた。僕らが歩いて行く先に仲間がいると思うと心強かった。でもすぐにその光はふっと消えた。曲がり角を通過したんだろう。
また不安になって隣の焔君を見ると、顔の前に地図を持って懐中電灯で照らしそれをじっと見つめている。
「足元見える?危なくない?」半分はなんでもいいから声を出したくて、僕は焔君に話しかける。
「だ、大丈夫だようるせえな、お前はちゃんと道照らしとけよ」と言った焔君の声は怒っていて、震えていた。目印だけ気をつければいい簡単な道なのに、焔君は地図から目を離さずに歩くので小石に躓いたりしながら段々歩みは遅くなっていき、激しい息づかいも聞こえてきた。
そこで僕は初めて気付く。焔君は怖がっているのだ。ひどく怖がっている。
暗闇の中を一緒に歩く唯一の相手が、自分と同じように怖がっている。それもあの焔君がだ。いま僕が頼れるのは焔君しかいないのに、あんなに威張っていたくせに、怖がるなんておかしいじゃないか。僕の心を占拠していた暗闇の恐怖は、だんだん僕のこの場での信頼を裏切った焔君への怒りに変わっていった。理不尽な怒りだけれど、その時の僕には、それは切実で正当な怒りだった。
「こんなにゆっくり歩いてたら次の組に抜かれちゃうよ。もっと速く歩こうよ」と僕は言った。
「う、うるせえな、お前は黙ってついてくりゃいいんだよ」と焔君がさっきよりももっと震えて、かすれた小さい声で返事をする。
それを聞いて僕の怒りは更に増幅された。
「じゃあ、先に行くね」と僕はきっぱり言って、焔君を置いて早足で歩き始めた。
「お、おい、待てよ、待てって」という焔君の狼狽した声を置き去りにして、僕は一人でどんどん歩いた。焔君はその場で立ちすくんでいる。それまであんなに強く感じていた恐怖はどこかへ消え去り、そのとき自分より弱い者をただただ侮蔑したい気持ちでいっぱいだった。焔君への仕返し、という意識はなかったと思う。ただ、一人で暗闇の中を歩きながら焔君はいつもこういう気持ちで僕を見ていたのかな、と考えたことを憶えている。
少し経って後ろを振り返ってみると、懐中電灯が揺れながら近づいてくるのが分かった。焔君が走って追いかけて来ている。僕は自分の懐中電灯を消した。
これで焔君は僕が見えない。
目が慣れると、月明かりでなんとか道は分かる。僕は走った。焔君にもっと強い恐怖を与えたかった。それが僕のするべきことだった。
3分ほど走っただろうか。僕は肩で息をしながら立ち止まって後ろを振り返った。焔君の懐中電灯は、まだかなり後ろで揺れている。
僕はその光を見つめた。頼りなげにゆらゆら揺れている懐中電灯の光は、無力で弱い、怯えた焔君そのものに見えた。
もう充分だったはずだ。でも僕はそこで焔君を待って、また二人で歩き出すことは選ばなかった。僕は道を外れ、音を立てないようにゆっくり林の中へ入った。一歩道から外れるとそのままもっと深い森にさまよい込みそうな恐怖を一瞬感じたが、そのときの僕はなぜかすぐに冷静になることができた。月明かりも届かない、眼前に広がる無限の完全な暗闇をまっすぐ見つめてから、そばに生えていた木の根元にしゃがみこんだ。木はちょうど僕の体が隠れるぐらいの太さがあり、道からは僕は見えない。同じように僕からも道はよく見えないが、道から2、3メートルしか林に入っていない場所だ。懐中電灯を持った人間が通ればその光は見える。僕は息を殺し、焔君が来るのを待った。
懐中電灯の光がだんだん近づいてきた。
光は、激しく揺れたかと思えば止まり、また揺れるという動きを繰り返していた。多分走ったり歩いたりを繰り返しているんだろう。僕は木の後ろに隠れたままその光を見つめ続ける。焔君の足音が聞こえてくる。小刻みに、おぼつかない不安定な足取りだ。いま焔君は、誰も頼る者もなく一人きりで暗闇を歩く恐怖の中にいる。
僕には焔君が見える。焔君には僕が見えない。僕もこの暗闇の一部で、焔君はこの僕を怖がっている。
懐中電灯の光がすぐそこまで近づいてくる。
焔君はスタートしたときと同じように地図を目の前にかざして懐中電灯で照らし、周りの暗闇を見ないようにして恐る恐る歩いている。懐中電灯が顔の近くにあるせいでその表情もはっきり見える。あの威圧的な、自信と力に溢れたいつもの顔は消え、だらしなく口を開けて小さい子供のように泣いている顔が見える。もっと焔君を怖がらせたい。焔君が僕の前を通り過ぎようとしたとき、足元に転がっていた石を拾って反対側の林に投げた。思ったとおりガサッとなにかが動くような音がする。焔君はその音に驚き、「うわあ」と声を出ししばらく立ちすくむ。音のした方に光をむけることもできず、そこから走りだすこともできず動けないでいる。しゃくりあげる泣き声が聞こえてくる。
僕は真っ暗な林の中で、恐怖に支配され為す術も無く怯える焔君をただじっと見つめていた。
その後も、僕と焔君の関係は表面的には変わらなかった。それまでの悪意を持った無視や面白半分の攻撃はなくなり、焔君は徹底的に僕を避けるようになった。キャンプはあと二日で終わりだったが、僕は障害がなくなったことでいい気分だった。動けなくなった焔君はあとから来た最後のペアと合流してゴールした。僕は三人が離れていくのを林から見届けた後、スタート地点に引き返した。リーダーには焔君と途中ではぐれて、道が分からなくなったので戻ったと言った。僕と焔君の関係を知っているリーダーは、大方ケンカでもしたんだろうと思ってくれたようで特に追求されることはなかった。
あとから来たペアに泣いているところを見られた焔君は、それからキャンプが終わるまでずっとおとなしく、消灯後のトランプも肝試しの夜からはなくなった。
焔君とはそういう数日間の関わりがあった
けれど、もう一人の綾子との記憶は最終日のオリエンテーリングでの、数時間の出来事だけだ。