小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

十二月九日

INDEX|4ページ/10ページ|

次のページ前のページ
 

 その言葉はなんだかとても僕の存在に馴染む。そして僕は彼女の近くに行きたいと思う。彼女の白と僕の黒はもう少し近づくべきだという気がする。できれば重なり合うべきで、混ざり合うべきだ。僕は衝動的に羽ばたいて枝を蹴り、彼女へ向かって飛ぶ。僕と同時に他の五羽も弾かれたように飛び立ち、彼女へ向かって飛んでいく。彼らはすごいスピードで僕を置き去りにして、まっすぐそれぞれの場所へ落ちていくように飛ぶ。一羽は右腕へ、一羽は左腕へ、一羽は右足へ、一羽は左足へ、一羽は頭へ。鋭い爪をたてて彼女を掴むと、彼らは翼をいっぱいに広げてみせる。彼女の手足と顔は黒い翼で覆われ、白いワンピースに包まれた胸とお腹だけが見える。それが僕の場所だ。僕は全力で羽ばたき、鉛が落ちていくようなスピードで彼女の胸の真ん中へ向けてまっすぐに飛ぶ。あまり血が出なければいいのだけれど、と思いながら僕は黒くて固い、尖った嘴を彼女の心臓へ突き立てる。嘴から彼女の体温が伝わってきて、僕はいくらか幸せな気持ちになる。でも、こんなことをして彼女は怒っているだろうか。わからない。僕には彼女の気持ちがわからない。そのとき、彼女の身体の中でなにかが音を立てて弾ける。僕は彼女に深く刺さった嘴を引き抜き、大きく翼を広げる。血は流れない。でもその代わりに、彼女の胸に空いた穴からは透明な水が溢れてくる。水はとめどなく静かに溢れ、彼女の身体を伝って池に流れ込み波紋をつくる。
 僕の黒い体と彼女の白いワンピース。
 僕は想像することをやめる。
 だんだん日は落ちて、気がつくと池の廻りから人が少なくなっている。池をぐるっと取り囲む木立はあとすこしで夜の闇に沈む曖昧な半透明の膜で覆われている。木立の下を歩いて帰っていく人達のシルエットが夜に滲んでふっと消えていくところに見蕩れていたら、彼女のことを放っておいて僕も帰ろうかと思う。でも冷たい風がひとつ吹いて、彼女の髪が揺れるのを見たらやっぱり声をかけずにはいられなかった。
 「ねえ、もう夜になるよ。そんなに体を冷やしたらよくないよ。上がっておいでよ」
 僕はできる限り優しくそう言った。僕が彼女を心配していることがちゃんと伝わればいいのだけれど。
 「カラスは好きじゃないな。カラスは好きじゃない」と背中を向けたまま彼女が言った。
 「そう?僕はけっこうカラス好きだよ。だってカラスは本当に黒いんだよ」彼女が初めてしゃべったから僕は嬉しくなった。
 「私は黒いものが好きじゃないの。白いものしか好きじゃない」と彼女は言う。
 僕はもっと彼女と話したくて続ける。「ねえ、知ってる?白いものと黒いものが交わると透明になるんだよ」
 「嘘ね」と彼女は僕の言葉を断ち切るように言う。
 彼女は振り返り、ゆっくり僕に向かって来る。辺りはもうずいぶん暗くて、彼女がつくる波紋はよく見えない。白いワンピースだけがやけにはっきり浮かんで見える。彼女がゆっくり水の中を進む音が聞こえる。僕の鼓動は速くなる。彼女は池から上がり、ワンピースの裾を絞る。飛び散った水滴が僕の靴に飛んでくる。僕は、ベンチの下に脱ぎ捨てられていた彼女の靴を取って彼女の足元に置く。彼女は濡れたままの足で靴を履き、僕をみる。それから僕の横を通り過ぎる。
 「私、あなたのこと知らない」と彼女は言った。
 僕はうなずく。「そうだね、僕は誰なんだろう」
 「さよなら」と彼女が言う。
 「さよなら」と僕も言う。もうすっかり日は沈んで、冷たい夜気が辺りを覆っている。六羽のカラスも、もういない。

 夜、眠れないことがある。そういうときに僕は、小学生の頃の、ある夏に行ったキャンプのことを思い出す。五年生の夏休みだ。眠れないときになぜいつもそのキャンプのことを思い出すのか理由はよく分からない。きっと寝苦しさや夜の暗さや、明け方の薄い明るさが記憶のどこかを刺激するんだろう。そのキャンプの記憶は、いつも湖が見えたところから始まる。

 湖が見えた。
 バスは東京近郊の小学校へ通う、四年生から六年生の児童五十人ほどを乗せて本栖湖へ向かっている。夏休み中の一週間を利用して、複数の小学校対象の合同キャンプが開かれる。僕の小学校からは三人が参加していて、じゃんけん大会の末僕もその三人に入ることができた。多少費用はかかったけれど、母に話すと快く「それはいいわね。行ってらっしゃい」と言ってくれた。
 バスを降りると間近に湖があった。それまで湖というものを実際に見たことがなかった僕は、その大きさに圧倒された。海は見たことがあったけれど、山の中にこんなにも大きな水の世界があることにひどく感嘆したのだ。向こう岸には良く晴れた空に富士山が間近に見え、湖の廻りには木々が水との境界をはっきり区別している。無限を思わせる海に比べれば湖は閉じた世界だったが、だからこそそのスケールが小学生の僕にリアルな自然のサイズを感じさせたのだと思う。真夏なのに空気は軽く、湖の水面や木々の緑がキラキラ光っていて体中を通り抜ける風はそれまで感じたどんな風よりもいい匂いがして、手を出せば掴めそうな実体を感じることができた。
 それから僕たちは順番に名前を呼ばれ、十人ずつ、五つのグループに分かれて整列した。当然クラスメイトの二人とは離ればなれだ。これから一週間、初対面の十人でキャンプをする訳だ。
 各グループには二人ずつ、リーダーとしてボランティアの大学生が付いて色んなレクリエーションの指導や子供たちのキャンプ生活全般のサポートをした。男性と女性だったと思う。女性の方は全く記憶に無いが、男性はアフロヘアーの元気で優しいお兄さんだった。
そして残念だけど仲間の十人もほとんど記憶に無い。名前が思い出せないというレベルではなく、彼らの存在自体、断片的にしか憶えていないのだ。一週間とはいえ自然の中で寝食を共にしていろんな共同作業をして、たくさん話もしたはずなのにどうしても思い出すことができない。二人を除いては。
 一人は僕の一つ上、六年生の男子で焔君という名前だった。ほのおくん、だ。今もそうだろうけどその当時もやっぱり珍しい名前だった。そして名前の通り彼はとても気の強い、間違いなくクラスのボスだろうという感じだった。体はそんなに大きくないが若いボクサーみたいに締まった体つきで髪の毛は短く刈り込んでいて前髪だけ立っていた。おまけに真っ黒に日焼けしている。
 自己紹介が終わった傍から、痩せていてまだ全然背が伸び始めていなかった僕に焔君は「お前五年なの?ちっちゃいから四年だと思ったよ」と馬鹿にしたように言った。僕は曖昧に笑っただけで何も言えなかった。端的に言って、僕は彼が怖かった。
 もう一人は僕と同じ五年生の女子で、名前は綾子といった。そんなに美人ではなかったが整った顔立ちで、僕より頭一つ分ぐらい身長が高かった。髪の毛はまっすぐ肩まで伸ばしていて、すごく色白だった。日に焼けるのが嫌で昼間でも長袖のシャツを着ていて、何故かいつも不機嫌にみえた。背が高いから外見は僕よりずっと大人っぽかった。男子とはほとんどしゃべっていなかったと思う。一度、男子の一人が綾子を泣かせたとかでグループがざわついたことがあった。
作品名:十二月九日 作家名:フガジ