十二月九日
池を半周して彼女が靴を脱いだベンチに着いた。彼女はもう池の真ん中あたりにいて、ゆらゆら体を揺らしている。池の廻りにいる人達は無関心でいようとしているが、ちらちら彼女を見ては薄く笑うか微かに眉をひそめている。池の中でゆらゆら動く彼女の後ろ姿を眺めながら、僕は深く呼吸をして心を落ち着ける。
「水は冷たくない?」自分としてはかなり大きい声をだして僕は彼女に問いかける。彼女は振り返り、目をしかめて僕の顔をじっと見る。そして無言のまま前を向いてまたゆらゆら揺れはじめる。
「日が落ちたら、水、もっと冷たくなるからもう少ししたら上がるんだよ」と僕はもう一度声をかける。彼女は、今度は振り向きもしない。
彼女に連れがいることが分かったせいで、池の廻りにいる人達からぎこちない空気が消えていくのが分かる。でもすぐに、警戒や嫌悪から疑問や興味へとその場の雰囲気が変わる。
「失礼ですが、あの人はどうして池に入ってるんですか?なにか撮影でもしてるんですか?」案の定、六十ぐらいの犬を連れたおじさんが訊いてくる。
「ああ、いえ、撮影とかじゃないんですけどね、なんていうか・・・まあ、ただ入りたくなっただけだと思います」と僕は答える。嘘はついてない。嘘なんか面倒くさい。
「ただ目立ちたいだけですかね、それともこんな時期に池に入らなきゃいけない事情があるんですかね」とおじさんがしつこく質問を続ける。うるさいな、と言う代わりに僕は無視する。
おじさんは、ああとかふんとか不満げな唸りみたいな声を残して犬と一緒に立ち去る。でも立ち去るくせに、彼女をちらちら見ている。そういうものに、僕はとても苛々する。
なんだよおじさん、そんなに気になるならあんたも池に入ってみろよ。それで彼女の顔を正面から見て、目立ちたいだけですか、それともこんな時期に池に入らなきゃいけない事情があるんですかって訊いてみたらいい。それができないんなら質問なんかしないでほしい。僕らと関係ない場所で犬と生きていればいいだろう。
僕はおじさんにそういうことを言いたかったんだと思う。でもその時はただ苛々して、立ち去っていくおじさんと犬を見送っただけだった。
おじさん以外の人達は質問こそしてこなかったけれど、僕と彼女を交互に見たり、あからさまにクスクス笑ったり、池の中の女の子の存在を絶対に認めないことにしていたり、様々だった。
僕は、僕にできるいちばん穏やかな笑顔をつくって彼女が池の中をゆっくり歩き回るのを見守った。
一人遊びをしている子どもを見守る父親のように。もしくは、駅で向こうのホームに立っている恋人を見送るときのように。もしくは、映画館で(これはいいシーンだ)と自分に思い込ませるときのように。
イメージとしてはそういうものを利用したと思う。そのうちに池の廻りにいる人達の好奇心が薄れていくのがはっきり分かったから、僕はけっこううまくやったんだと思う。そして彼女を見守っているうちにうっすら涙が出て来た。きっとうまくやり過ぎたのだろう。
彼女は相変わらず僕なんかいないものとして振る舞ってる。もうワンピースをたくし上げることもやめて、粘土を溶かしたような色の水に太腿のあたりまで浸かり池の真ん中あたりをゆっくり歩いている。立ち止まって水を両手で掬ってみたり、空を見ながら一回転したり、目をつぶって一回転したり。カメラを持っていたら写真を撮るかな、と僕は考える。たぶん撮らない。写真を撮るってことは、池の中で遊ぶ彼女の写真をあとでみるってことだ。しない。そんなこと。
そしてカラスだ。池の中で遊ぶ彼女を、やっぱり彼らは放っておいてはくれない。まず一羽が僕の後ろから頭上5メートルぐらいの高さを悠然と滑空しながら現れる。彼女と池を通り過ぎて、バランスをとるために二、三回羽ばたいて池から少し離れた木の枝にとまった。そして枝の上で器用に体を反転させて彼女と僕の方に顔を向ける。真っ黒の目で、池の中の彼女だけをじっと見つめている。その視線からは対象へのひどく冷静で精密な関心と、それ以外のものへの完全な無関心が感じられた。そのせいで僕の心には強い安堵と疎外感が同時に生まれて、すこし混乱してしまう。そしてまた僕はカラスを羨む。あんな視線、僕だって欲しかった。
彼女はまだ池の中で遊んでいた。いまは右足と左足で交互に水を蹴り上げて、飛び散る飛沫と広がる波紋をみて喜んでいる。池の廻りにいる人達はもうすっかり彼女の存在や振る舞いを表面的には受け入れていて、嫌悪も興味も、もちろん好意も示さない。人はどんな状況にも馴れるものさ、と僕はちいさく声に出して言ってみる。なんだかすごく含蓄のある良い言葉に思える。
「ねえ、人はどんな状況にも馴れるものだよ」と僕は彼女に向かって今度は大きい声で言う。
彼女は返事をしないけれど僕に背中を向けたまま肩をすくめる。僕も彼女に倣って肩をすくめる。続けてもっとなにかを彼女に言いたいけれど、もう言葉は浮かんでこない。
いつの間にか枝の上に二羽、池の畔の芝生に三羽、カラスが増えている。みんなさっきのヤツと同じ視線で彼女を見つめている。僕も池の中に入ればカラスに見てもらえるのだろうか。でも彼女と池に入るのは気が進まない。たぶん、彼女は嫌がるだろう。
六羽のカラスは池の中の彼女を見つめ続ける。その真っ黒の眼球からは彼らの気持ちは分からないけれど、想像することはできる。
僕は想像する。目を閉じて、自分の両腕が黒くて大きな力強い翼だと思う。足の指に力を入れて、固く尖った爪があると自分に感じさせる。口と鼻をひとつにして堂々とした嘴をつくる。頭から爪先まで、僕の全身は真っ黒だ。僕にはそれがとても誇らしく感じる。速く、細かく何度か羽ばたいて地上を離れ、池の上をゆっくり大きく旋回する。それから彼女の上を滑空し彼女と池を通り過ぎて、バランスをとるために二、三回羽ばたいて池から少し離れた木の枝にとまる。僕は枝の上で器用に体を反転させて彼女の方に顔を向ける。そしてじっと彼女を見つめる。対象へのひどく冷静で精密な関心と、それ以外のものへの完全な無関心をもって、彼女を見つめる。彼女は真っ白のワンピースを着て、粘土を溶かしたような色の水の中にいる。口元に薄い笑みを浮かべて、足で波紋をつくって遊んでいる。ひとつの波紋が消える前に新しい波紋を、消える前にまた新しい波紋を。彼女はそれを何度も繰り返す。
それから僕は気づく。彼女の真っ白なワンピースと僕の真っ黒な体は同じエトスを持っている。彼女は白すぎて、僕は黒すぎる。どこにいても光り、どこにいても陰る。白いというだけで意味が生じ、黒いというだけで意味を拒絶する。だからカラスである僕は彼女を見つめる。僕の黒い体と彼女の白いワンピース。僕はまたちいさい声で言う。
「僕の黒い体と彼女の白いワンピ―ス」
カラスである僕は、その言葉を何度かつぶやく。
「僕の黒い体と彼女の白いワンピ―ス」
「僕の黒い体と彼女の白いワンピ―ス」