20世紀に思う
21世紀の現在、遠い星の事だけでなく今までわからなかったことがわかるようになり、多くのものが発見されている。それは前世紀からの蓄積が今に繋がっているのは云うまでもない。
準惑星と呼ばれる天体は今後も増えるだろう。そんな星は実際に次々と発見され、命名されている。天文学的数字と観点で考えれば、地球が太陽の周りを回るとわかったのもつい最近の話だし、この先もっと大きな惑星や地球以外での生命体が発見されるかもしれない。かつて地動説が認められたように、それまでの普遍的な考えが覆される時が来るかもしれない。いや、来るだろう。私はそう思いたい。
そういう意味では20世紀に冥王星が惑星の仲間となり、21世紀にそうでなくなったのも科学の進歩の過程から生まれた出来事だ。
ここまでは人類の科学の発展についてのお話。
* * *
天気の良い夜、私は車で山に行き星空を見上げた。肉眼では見えないけれど、広い広い天空にはたくさんの「準惑星」があるのだろう。それらには地球上の各地方の神話にある神様の名前がつけられているそうだ。天空にはあまたの神様がいるというわけだ。宗教や人間、国境、時代……その他いろんな枠を超えたものがどこまでも広がっている。
惑星の定義についてもあくまで人間が決めた線引きであって、人がどうこう議論する前からずっとそこにある。この先永久にこの枠組みが続くかどうかなんてわからない。そして、そんな枠組みなんてのも当の数千数万の星々にはどうでもいいことなのかもしれない。宇宙から見れば人はちっぽけで、宇宙は人が思う以上に広大で静かだ。惑星だろうが準惑星だろうが、冥王星は冥王星だ。
詳細に調べていないが、和名のついた天体は冥王星を最後に現れていないと覚えている。それは新しい天体が発見されていないのではなく、発見された天体の概要やその経緯、当時の世相などを勘案して、それ以上に素晴らしい和名が見当たらないからだと思う。人文学的な意味では冥王星は今もなお「最果ての星」であると言えるのではなかろうか。
水金地火木土天海冥
水金地火木土天冥海
呪文にも似たリズムの良い語感。「惑星」の並びを覚えるフレーズではなくなったけれど、変わったのは人が決めた線引きであって、この並びが変わることはない。私はこの言葉が大好きだ。