電話の中
9 上野毛 久乃
流し台を磨き上げたところで、電話が鳴った。なんだか打ち合わせをしたみたいなタイミングだった。
「もしもし。室崎です」
「あ、私、です」
「です。じゃないよ。らしくもない」
「そっか」
「あ、さっきの電話、会社からだったよ。写真撮って来いって。結婚式場の火事の、なるべくものすごい写真が御所望なんだ」
「火事? 火事の写真が欲しいの?」
「まあね。で、夕べの男はどうだった?」
「その言い方」
「なるほど。そういう意味での回答を期待してもいいのか?」
「いわないし、いえないし…」
「また、悩んでるね」
「起きない…」
「へ?」
「起きないんだ。あれから。」
「なるほど。彼も夜更かしは苦手だったってことだねって、違うかっ!ハハハ」
「気持ちが高ぶって寝られないっていうから…」
「さんざんお預けを喰らったわけだからね」
「え。嫌だ。やめて。それで、それならって、眠くなるお薬を混ぜて、お酒に」
「優しさだよね。眠れなくてつらそうだったんだろ」
「そう。それに私、眠かったから」
「午前3時過ぎなんだ。草木も眠る丑三つ時、だっけ」
「知らないけど。分量かな、お酒といっしょじゃ駄目だって、薬剤師さんも言っていたんだけど」
「つまりさ、眠らせるだけ、なんて程度の量じゃなかったってことだろ」
「事故なの」
「まだ、事故かどうかも分からないさ。救急車とかは?」
「でも、簡単に呼ぶのは、迷惑ですって。駅前でティッシュ配ってたから」
「うん。優しさだよね。じゃ、男はまだそこで寝てるんだ」
「そこ、っていうか、お昼の少し前までは。私、外にいるの。休みっていっても、暇じゃないんだ私も」
「自分の時間を有意義に使うというのは良いことだよ。スタバでキャラメルマキアートを頼んで、手帳に色鉛筆でスケッチしてるとか?」
「やだ。何で分かるの?」
「長いつきあいだからね。でも、本当?」
「まさか。私、あんまり甘いものは好きじゃないから」
「うん。で、気になるんだ」
「まぁねぇ。帰ってまだ寝てられると、ちょっと。私、彼にそこまでの借りはないかなって」
「部屋の鍵を、郵便受けの底に貼り付けておいたりしてあったら、小人達がなんとかしてくれるかもよ」
「なんで、分かるの?」
「長い付き合いだからね。でも本当に?」
「扉の隣のガス給湯器のホースの裏っかわに貼り付けてあるのよ。一応カムフラージュとして鼠なんかの死んだのを置いてあるんだけど」
「そりゃ、用心深いことで」
「これから晩御飯をお友達と食べるんだ。ビアガーデンのオープン日みたいだから」
「そりゃいい。人生の楽しみの一つだね。うん。それじゃ」
電話を切り、こまごまとしたものを買物袋から取り出して、ダイニングに並べていると、全てがどうでもよくなってきた。受話器をあげて110番にかけた。非常に機械的で冷静な対応だった。こちらも、悪戯電話だと思われないように、機械的で冷静な対応をした。
「ええ。立ち会うべきなんでしょうけども、足を折ってましたね。松葉杖をもらいにいくところだったんです。電話なので詳しいことはなんとも。あ、本人の携帯番号は――です。気が動転してるみたいで、自分が何してるか分かってないようでしたよ。じゃ。あとはよろしく」
受話器を置いた室崎は、
「頼られた男として望まれた行為ではなかったかもしれないが、市民としての義務は果たした」
と、つぶやいた。それは、とても情けない声のように響いた。だが、それ以上踏み込む義理は無いと思った。貸し借りでいえば、そこまでの借りはないのだから、と。
本当に問題なのは、国家権力に対して、「骨折した」と告げたことだった。嘘はよくないな、と室崎は受話器を取った。