電話の中
10 崎坂美咲(さきさかみさき)
「もしもし。昨日足を折った室崎ですが」
「え?ちょっとお待ちください。どなた様ですか?」
「え? あ、そうか。救急だったんですよ。何だか肛門科のお医者様しかいらっしゃらなくて、一応軟膏を塗ってくださったんですが、複雑骨折、腱の断烈だもんですから、外科が開いたら来なさいといわれれてて、その時松葉杖もいただく予定だったんです」
「何先生でしたか?」
「さあ。名前なんて些細なことですよ、救急患者にとっては。違いますか? もし、そういう先生がいないとか、私が昨夜そちらへ窺っていないとかいう寝ぼけた事を言いだしたら、分かってますね。あなた、崎坂美咲さんでしょ。知ってますよ。いろいろと。患者が嘘をつく必要はこれっぽっちもないんです。でも医者はよく嘘をつきますね。なぜでしょうね」
「しょ、少々お待ちください」
「おい。歩けないからって軽くみるなよ。念じ殺すことだってできるんだぞ。あの結婚式場の火事だって、俺が念波で燃やしたんだからな。通話記録を調べれば分かることだ。もっとも、世の中には、表に出ると困ることは山ほどあるんだがね」
「ああ。ひどい。私はただ…」
「ただ? つまりは、それなんだな。杖は手に入るのか入らないのか。どっちなんだ。ボイラー室で悶え死んだ数千のラットに誓って答えろ」
「は、はい。ご用意いたします。ですからどうかあのことは…」
「この会話は録音されている。わかっているな。しかも転送されている。さらにダビングされて配信された上で消去されている。君はもう私から逃れることはできない。いいね。これからいうことを良く聞け。昨夜、俺は足を折った。右足だ。複雑骨折だ。だが満足な手当てはしてもらえなかった。何故だ?」
「夕べは当直がいなかったんです。シフトの監理ミスでした。唯一いたのは肛門科の沼繁先生だけでしたが、その、テキーラを片時も話さなかったので…」
「それだけじゃないね」
「え、ええ。私も…」
「私も、なんだい」
「私もテキーラをいただいて、うかれていたので、それで…」
「うん。処方を間違えたんだったね」
「いえ。そんなことは…」
「無いというのかね。おかしいな。そもそも私は薬を貰ってないんだよ。包帯すら巻いてもらえなかった。石膏ギプスもね。どういうことだね。骨は肉組織をつらぬいて、というよりも断裂した肉組織をえぐりとるように、まるでフェンシングをするかのように交わっていたんだ。なぜだかわかるかね」
「あ、あ、あ、 、 、 」
「それはね。実は、僕は病院へ行っていないからさ!」
「!」
受話器から甲高い爆音が飛び出して、室崎の鼓膜を貫いた。左目がチカチカした。受話器を耳からはずして、首を大きく左右に伸ばして、大きく深呼吸をした。
「『個人演劇集団 アキレスの踵 不定期公演 「ぷりーず ギプス ミー」』本番中だ馬鹿野郎この野郎。これから骨折するから治療にうかがおうと思っていたのだ、参ったか馬鹿や、あ、キャッチホンが入ったようなので失礼する。そっちへ行ったとき、意地悪しないでくれたまえ。あ、それから、お腹の子によろしく。きっと帝王切開だろう。ははは」
(砺波さん。大丈夫ですか。一体どうしたんです。砺波さん)