電話の中
7 イリジウム
夢を見ていた。見たこともない街で、左耳がどろどろに腐っていく夢だった。腐って開いた穴からゴキブリが入り込んで、頭蓋骨と脳の間、くも膜とか、脳膜とか、の隙間に入り込んでゴソゴソいっている。恐怖におののくでもなくただ、気持ちの悪い感触だけが残っている。枕もとにはコードをぴんぴんに伸ばした電話機。そして、しっかりと抱きしめていたのは受話器で、そこから女の声がしていた。
「寝てた?」
「あん? あ、ああ。眠ったみたいだ。悪かったね」
「いいの。私が寝られないだけ」
「今は何月何日の何時なんだろう」
「さあ。よくわからないの」
「君は誰だい?」
「そんなことは些細なことよ。わたしたちはこれから親密な時を過ごすのよ」
女の声は、ときおりノイズがかぶって聞き取れなかった。
「試験監督にいって、採点にゲタはかせてもらわないとな」
「なに?」
「ヒアリングテープが聞き取りにくいといえば、採点が甘くなるんだよ」
「語学力のせいなんじゃないの?」
「ふん。耳の不自由な人が英検をうけて、ヒアリングにかんしても筆記で対応したっていうのが、英断みたいに取り上げられてる国になんて、未練はないよ」
「旅は好き?」
「旅ねえ。そういう旅情にふさわしい土地はもうこの国には無いのさ」
「海外よ。あたりまえじゃない」
「駄目さ。海外では旅情は味わえない」
「言い切るの?」
「だって、旅情っていうのは憧憬さ。郷愁なんだよ。違う国の風にふかれてカルチャーショックを貪るのは、現実からの一時的な逃避さ。ディズニーランドにいくのと変わらない」
「楽しければいいのよ」
「だったら、いくさ。タヒチでも、モルジブでも、フィージーでも」
「ストックホルムは?」
「それって北欧だっけ?」
「知らない。白夜とかオーロラもいいけど、寒そう」
「バイキングの末裔だって言って、つまり犯罪者の群れなんだ。八丈島の住人とかわりゃしない」
「ハチジョウ? 野蛮な国?」
「いや、エレガントでエロティクでエキサイティングな国さ。僕はそれを三つのエと呼んでいる」
「知的なつもりなのね」
「そうだね。ホームズというよりはマイクロフトなんだ。クイーン警視というよりもエラリーなんだ。電波悪いね」
「状態は悪くないはずよ。イリジウムだけど」
「聞いたことはある。探検家なのかい?」
「マッターホルンの第三ビバーク地点が雪崩にやられてね、今宙吊りなの。誰かと話してないと気が狂いそう」
「今月末に電話代の請求がきたら、間違いなく死んでおけばよかったと思うよ」
「……寒いなあ。こっちはいま明け方なんだけど、そっちは?」
ノイズは吹雪の音だったのだろう。
「僕もいま起きたところなんだけど、そもそも眠りはじめたのがいつかが分からないからね」
「そんなの分かる人いないでしょ。眠った瞬間が何時だったかなんて」
「君はきっと覚えているよ」
「いいえ。生き延びるのよ。そのためにたくさん保険をかけているんだから」
「ああ、保険金殺人じゃないかと疑われるよ」
「そんなの平気よ。生き残ったのは私だけ。私はハーケンに一番近いところにいる。あとの人はみんな私の下に首だけでぶら下がってるわ。でも切り離していいものかどうか、迷うなんて私もまだまだ甘いわね」
「それで何で保険金が入るんだ? ぶら下がっている連中が、君を受取人にして生命保険をかけてくれたのか?」
「例えば、主人と泥棒、その妻と愛人って、映画あるでしょ?」
「コックと泥棒、じゃなかった?」
「主人はコックなのよ。でアルピニストでもあるってわけ。私としては、全てを白銀の彼方へ葬り去れるってわけ」
「例えば、この電話を録音してるっていったら、困る?」
「何。あんた警察の人。それとも盗聴マニア? でもいいわべつに。太陽があの銀の斜面から顔を覗かせる前に見つけられないなら、見つからない方がマシよ。凍傷になると鼻や耳が腐って落ちるんだから」
「電話しててもそうだよ。受話器を押しつけるから血行が悪くなる。その上受話器は冷たいから。とにかく、血の問題なんだよ。血は大丈夫?」
「知らない。ちゃんと飲んだことないもの」
バラバラという機械音。ヘリコプターだろう。セントバーナードの吠える声も聞こえてくる。
「まぶしいな。辺り一面ダイヤモンドの輝きにつつまれるのってどういうのか分かる?」
「ひたすら恥ずかしいんじゃないの」
「違うわ。自分を失うのよ。恥ずかしいなんて微妙な感情は飛んじゃうの。そこではね、上も下も右も左も時間も空間も無いのよ。影も無い。そして自分も無いの。ありがと。暇つぶしができたわ」
「いいさ。たまには仕掛けられる側に回るのも乙なものさ」
「あ、最後にいい?」
「何?」
「コレクトコール受けてくれてありがとう。あと、よろしくね」
「何だって! 馬鹿野郎。連絡先教えろよ。保険金入るんだろ。その金ではらえよ電話代。おい。おい。おーい」
受話器からは無機質な電子音が、長く長く続くばかりだった。
これはどこから聞こえてくる音なのだろうか。先ほどまでの女の声は、アルプスからだった。電話はその電話がある場所と、この部屋とを電気信号でつないぐ。では、このどこにもつながっていない状態で聞こえる音は、この部屋をどことつないでいるというのだろう。電話機の内部だろうか。このおびえた子犬のような形をした、無機質な電話機のい内部に広がる巨大な闇を、室崎は垣間見たような気がした。そして、室崎は塞ぐ術の無い耳を、無防備にもその虚空に差し出しているのだった。
「結局、この音は、俺の中から聞こえてくるものだったんだな」
そう考えると、恐怖は去った。実は、恐怖が去ったと思った時に、室崎は自分が恐怖を感じていたのだということに気づいたのだった。
宮はまだ戻らないようだ。
「引っ越そうかな」
と、室崎は思い、それからいても立ってもいられなくなった。