ベイクド・ワールド （下）
第十二章 ふと、壁掛け時計を見てみると、四時四十四分を示していた
金曜の夕方、僕は静岡駅南口で沙希を待っていた。南口は、北口とは違ってあまり人通りが多くない。百貨店や呑み屋の多くが北口側に集中しているからだ。南口はむしろスナックや個人居酒屋のような小さな店がぽつぽつと点在し、ゆっくりと落ち着きたい人間のための場所として機能していた。バス・ターミナルも北口よりも小さく、こぢんまりとしている。駅のロータリーには迎えのために駐車している車が見えた。僕はロータリーに入っては出ていく車をぼんやりと眺めていた。
ふいに、右肩を叩かれた。振り返ると沙希がいた。
「ごめんなさい、少し遅れた？ 時間は大丈夫？」と沙希は言った。
僕は右手につけた腕時計を眺めた。「大丈夫だよ。Sunashは歩いても五分で着く距離だから」ライブの開始は十九時だった。今はまだ十八時四十五分をまわったところだ。
「よかった」
「まあ、ゆっくり歩きながら向おうか」と僕は言った。沙希は頷いた。Sunashは南口から三ブロックほどまっすぐに進み、右に折れれば、すぐに到着する。
「それにしても」と沙希は言った。「The Baked Worldなんてバンドがいるなんて驚いたわ」
「ああ、僕も驚いたよ。でも、そのバンドはどうやら四年前から活動しているみたいなんだ。だから、ベイクド・ワールドとはおそらく関係がない可能性が高い」
「でも、そのバンドは最近、再び現れたんでしょ？ それは少し不思議よね」
「まあ、そうだけど。でも、偶然の一致って結構あるよ。たとえば、ふと壁掛け時計を見たときに、四時四十四分だったり」
沙希は「そうね」と言って、小さく笑った。
「まあ、今日は君とライブを楽しめれば、それでいいよ」
「どういう意味？」沙希は不思議そうな顔をした。
「そのままの意味。もうしんぼるもない。ベイクド・ワールドもこの上なく平和だ。だから、ただただ楽しみたいってこと」
「ふうん」沙希は納得したのか、してないのか分からない返事をした。それから、「そういえば、今日はGreen Hillの店員さんも来るのよね？」と言った。
「そうそう。野崎さん達。ええと……確か名前は……紘一さんと陽子さんだ」と僕は言った。沙希は頷いた。
信号を渡り、右に折れ、まっすぐ進むとレンガ造りの小さな建物の前に人だかりが出来ているのが見えた。間違いなく、今日のThe Baked Worldのライブを観に来た人たちだろう。僕たちと同年代くらいの若い少年や少女が多かった。なかには、おそらく大学生だと思うが、二十代くらいの人が数人いた。基本的には、紘一さんが言っていたとおり、十代が多い。しかし、四年前にいなくなったバンドに関わらず、まだそれなりの人気があるようだ。僕は少し驚いた。僕と沙希は外で話をしている彼らのあいだを通り抜けて、Sunashの入り口に入った。中に入ると、すぐに急な階段になった。階段はところどころ薄汚れ、壁には至る所にライブチラシが張られていた。地下に降りると、チケットを受け取るスタッフがいて、僕たちはチケットを二枚渡した。半券を受け取り、僕たちはライブハウスに足を踏み入れた。
中にはすでに数十人近くの観客がいた。ふと、髪を赤く染めた女の子と緑色に染めた女の子の二人組が目に入った。彼女たちはステージにもっとも近い場所を陣取っていた。演奏ステージと観客ステージの間は背の低い柵で遮られており、彼女たちはその柵を手で掴んでステージに置かれた楽器を眺めていた。僕たちはとりあえず、あまり人がいない壁際に行くことにした。
壁によりかかっていると、ふいに声をかけられた。振り向くと、そこには紘一さんと陽子さんが立っていた。二人とも動きやすそうな白のＴシャツ姿で、その恰好に僕は少し違和感を感じた。二人の恰好といえば、白のシャツに黒のスラックス、そして緑色のエプロンだった。つまり、喫茶店の制服だ。まあ、さすがにライブで着て来るわけはないのだが。
「やあ、やっぱり来たんだね」と紘一さんは言った。それから、陽子さんは僕を見て、笑みを浮かべながら小さく手を振った。
「このあいだの話でやっぱり気になってしまって」と僕は言って笑った。
紘一さんは、僕の後ろにいた沙希に目をやった。「ええと、彼女は？」
「ええと、友達です」と僕は言った。果たして、友達で合っているのだろうか、と心のなかで少し疑問に思ったが、それ以外に説明のしようがなかった。彼女が『軸』で、僕が『アルビナ』です、などとは言えないのだから。
「ふうん、友達ねえ」と紘一さんは言った。それから「まあ、友達から発展するのももう少しかねえ」と言って、笑みを浮かべた。陽子さんも、僕たちを見て小さな笑みを浮かべた。
「で、その『お友達』は、お名前はなんて言うんだろう？」と紘一さんが言った。
「黒川沙希です」と沙希は言った。
「沙希さんね。僕は野崎紘一。このあいだ亜季君と僕たちの喫茶店に来てくれたの、覚えているよ。よろしくね」と紘一さんは言った。それから、陽子さんを指差して、「彼女は僕の妻で陽子だ」と言った。
「よろしくね、沙希ちゃん」と陽子さんが言った。
「よろしくお願いします」そう沙希は言って、頭をこくりと下げた。
「そろそろライブが始まるみたいだ。それじゃあ、あまり二人の邪魔をしない方がいいし、ライブが終わったら、また」と紘一さんが言った。
「二人で楽しんでね」と陽子さんは言った。
そう言って、二人は僕たちのもとから離れていった。
その瞬間、照明が落とされ、真っ暗になった。観客は歓声を上げて、ステージ側へとなだれ込んでいった。彼らは僕と沙希の間を勢いよくすり抜けようとしてきたので、慌てて僕は沙希の手をつかんで、こちら側に引っ張った。沙希は少しよろけて、僕にもたれかかった。
「ごめん」僕は暗闇のなかで沙希のいる方を見て言った。「どこにいるか分からなくなりそうだから、手をひっぱったんだ」
「大丈夫。ありがとう」と沙希は言った。
ふいに、軽快な音楽が流れはじめた。照明が再び点灯し、ちかちかと点滅した。The Baked Worldのメンバーが登場してくるのだろう、観客は先ほどよりも大きな歓声を上げ、腕を突き上げた。人の熱気は興奮によって、これほどまでになるのか、というほどに室内が蒸し暑くなった。
部屋が明るくなったので、「危ないから、あまり離れないようにね」と僕は沙希に言って、手をそっと離した。
「うん」と沙希は言った。「それじゃあ、アルビナの服をつかんでる」と言って、彼女は僕が着ているパーカーの裾をつかんだ。
「うん。いいよ」と僕は言った。
作品名：ベイクド・ワールド （下） 作家名：篠谷未義