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ベイクド・ワールド (下)

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 気がつけば列車の扉は閉じられ、僕を排出することなく列車は再び走り始めた。僕は駅で降りず、徹は列車に乗り込んできた。均衡が破られたのだ。徹は僕の肩に置いた手でソファを指差した。それから「少しだけ、話をしよう」と言った。僕たちは隣同士に座った。僕が右で、徹が左だ。僕は発する言葉を探そうとしたが、頭が混乱しすぎていて言葉を繋げることができなかった。
「君が混乱することはよく分かる。突然、俺が現れたんだからね」と徹が言った。「でも、君には直接会って話しておかなければいけないと思った。君が俺の為にしてくれたこと、それからこれから俺の為にしてくれること、その礼をちゃんと言っておかなければならないと思ったから……。まず一つは、玲のことだ。ありがとう、彼女をマトリョーシカから抜け出させてくれて」
 徹のその言葉に僕は俯きながら首を振った。「いや。僕はまだ玲を助けられていない」
 徹は小さく笑った。「いや。君は彼女を助けられているよ。君のいいと思った方法で彼女を何階層も閉じられた世界から抜け出させてくれた。だから、ありがとう。俺たちの大切な可愛い妹だ。かけがえのない彼女を助けてくれてありがとう。涼子や克也も喜んでくれるだろう。涼子の睡眠薬の量も変わるかもしれないね」そこで一度言葉を区切って、徹は僕の頭に手を載せてポンと叩いた。「それから二つ目だ。……俺を赦してくれてありがとう。ただ呼吸をし、ただ拍動し続けるだけの閉じ込められた生に意味などない。俺も君に助けられたんだ。亜季、君には感謝しかない。これで、ようやく俺の物語が終わる。これからは君たちの物語を紡いでいくことができる」
「徹。僕には兄さんが何を言っているのかよく分からない」
「今は分からなくてもいい」と徹は言った。それから徹は僕のブレザーの胸ポケットから小説を取り出した。それを目の前でくるりと回した後、口を開いた。「今まで、君の人生はいわば俺の物語の延長線上にあった。まるで小説に登場する人物のように、与えられた物語のなかで与えられた役割を全うすることしかできない。きわめて不自由な物語と言ってもいい。ただ、君はその変えられない物語を変えてくれた。君が正しいと思った方法で変えてくれたんだ。だから、次こそは君の胸ポケットのなかでずっと眠り続けていた、君自身の物語を今度は読み進めて欲しい。俺は素直にそう思うんだよ」そう言って、徹は手に持っていた小説を再び僕の胸ポケットに戻した。「だから、とりあえず、今は眠ればいい。なにもかも考えることは止めて、ただただ眠りに身を任せればいい。これまで君は絶えず目を醒ましすぎていた。だから、眠ればいい。疲れたときには眠るものなんだ。だから、おやすみ」

 僕は徹のその言葉に何か赦された気がした。僕のなかで失われていた何かが僕のなかに戻ってきたような気がしたのだ。そこにはジャケットに仕舞われていた徹の手紙やポールに括りつけられた革ベルトもあるだろう。それから胸ポケットに仕舞われた小説だったり、僕の部屋に閉じ込めた玲の扉だってある。僕のなかで失われていたものたちは僕をゆっくりと包み込み、眠りのなかへと導いていく。ついに僕の瞼は閉じられ、視界が真っ黒となる。ゆっくりとかすれゆく意識のなか、ふいに沈丁花の香りが鼻をかすめる。懐かしいその香りに、僕は彼女のことを思い起こしながら眠りのなかへと落ちていった。