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ベイクド・ワールド (下)

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第二十章 ろんぐ・ぐっどばいのあとで



 瞼の内側の真っ黒な視界が明るさを帯びた。どうやらカーテンの隙間から差し込んだ陽光が僕の顔を捉えたようだ。僕はゆっくりと目を開け、ベッドから起き上がった。それからベッドの隣でカタカタと振動しながら稼働していた扇風機のスイッチを切った。空気の循環が止まり、蒸し暑く気だるい空気が部屋のなかに停滞した。僕はその空気を振り切るかのように、自分の部屋を出た。玲の部屋が目に映る。扉のない部屋だ。彼女の扉は僕の部屋の押し入れで今も眠りについているだろう。玲の部屋の入り口にかけられた紺色のカーテンを捲し上げ、僕は玲の姿を見つめた。毛布のなかから彼女の寝息が聞こえる。ひだまりにまどろむ子猫のような寝息だ。僕はそれだけ確認してから、リビングに向かった。
 冷蔵庫からフルーツグラノーラを取り出し、皿に出した。それから牛乳をかけて、しばらく浸しておく。その間にお湯を沸かし、お茶を淹れる。テレビをつけ、ニュースを取り敢えず流しておく。大して興味のあるニュースはなかった。ドラマで共演経験のある俳優と女優が結婚したとか、与党の政治家の失言に対して野党が追及しているとか、有名なアニメ映画の公開が延期になったとか、そんな内容だった。フルーツグラノーラを食べ終え、僕は歯を磨き、制服に着替えた。それから部屋に置いてあったスクールバッグを手にして、家を後にした。
 バス停に向かい、バスを待つ。ここのバスはいつも時間どおりには来ない。地面を見ると、アスファルトが濡れていることに気がつく。どうやら夜のうちに雨が降ったようだ。雨上がり独特のアスファルトの匂いが辺りに漂っている。僕はこの匂いが何故か好きにはなれなかった。ただ、あいつは好きだと言っていた。ただ、僕はこの匂いを嗅ぐと、なんだか気が滅入ってしまうのだ。僕は肺に取り入れる空気を極力少なくして、この匂いをできるだけ体内に入れないようにした。ほどなくすると、バスが3分遅れで到着した。扉が開き、僕は乗車し、駅に向かった。

 駅のプラットフォームのベンチに座って、僕は列車の到着を待った。辺りを見回すと、学生たち数人が目に映った。参考書を読みふける眼鏡をかけた少女や、単語帳をめくる寡黙そうな少年。彼らも僕と同じように夏休みの補習だろうか。補習というのは実に退屈だ。気だるい湿気に富んだ空気のように、たいして得られるものもないのだ。僕たち学生の役割とは、ただ黙って疑うことなく勉強することしかないのだ。ほどなくすると、列車がゆっくりとフォームに進入してきた。気の抜けた炭酸ガスのような空気を漏らしながら、列車の扉が開けられた。一つしか席が空いておらず、僕はその席に座った。扉が閉じられると、列車はゆるやかに発進した。僕の右隣には四十台くらいの神経質そうなサラリーマンが携帯をいじっていた。時折、小さく舌打ちをついていたので、何かあったのだろうか。だが、その内容は知る由もない。左隣には茶髪の女子校生が座っていた。甘ったるい香水の匂いを漂わせていた。彼女はスクールバッグのポーチから鏡を取り出すと、メイクをし始めた。既にメイクをしているように見えたので、メイクの上の更なるメイクのようだった。隠したいものは幾十にも隠せるということだろうか。しばらくすると、一つ目の駅に到着し、列車は数名の人を排出し、数名の人を招き入れた。失われるたびに失われた分が足されていく。二つ目の駅でもそうだった。列車とは相容れないはずの変化と均衡を常に併せ持っているのだ。

 僕はブレザーの胸ポケットにしまっていた小説を取り出した。それから頁を繰り、栞を挟んでいた場所を開く。五十頁だ。列車はトンネルのなかに入り、車窓から見える景色をすべて奪い、ただの壁に差し替えた。暫しの間、僕はこの世界から離れ、小説の世界に入り込むことにした。そのなかにはスマホを操る男の舌打ちも届かず、女学生の放つ甘ったるい香水も届くことはない。きっと、あいつでさえもこの世界に入ってくることはできない。小説を読んでいるときが、僕にとって唯一心が守られる瞬間だった。しかし、それは単なる逃避と言えるのかもしれない。
 列車はトンネルを抜けきる。今度は車窓から見える壁が奪われ、再び景色に差し替えられる。進行方向の左手には青々とした山があり、向かい側には潮の香りを漂わせた海が広がる。列車は迷うことなく、前進を続ける。三つ目の駅に到着すると、今度は乗客を一人も降ろさず、そして一人も乗せなかった。変化が起こらないこともあるということだ。列車はその役割を全うして、前へと進み続ける。小説も同じように前へと進み、六十五頁を迎えていた。僕は物語のなかに深く入り込み、頁を繰る速度も速くなっていた。頁はまるで綱を引くかのように手繰り寄せられ、僕の身体のなかに吸収されていった。僕のなかで物語が大きく、深く、展開されていくのを感じる。まるで僕自身がその小説の登場人物であるかのように。四つ目の駅に到着すると、列車は再び人々を吐き出し、そして飲み込んだ。それから再び、列車は動き始める。次の駅は僕が下車する駅だ。列車は川を渡るために、鉄橋を捉える。陸と鉄橋の境目で大きな揺れが生じる。その境目はある意味で、現実と幻想の境でもあったのかもしれない。揺れのせいで、小説に向けられていた僕の視線が一瞬外れ、列車の床へと流された。気がつけば、僕の隣にサラリーマンと女子校生はいなくなっていた。きっとどこかで下車したのだろう。小説のなかにいた僕にはまったく気がつかなかった。ただ、そんなことは僕にとってどうでもいいのだ。僕は再び小説に目を落とし、最後の駅までのささやかな時間を消費することにした。もっと先へと物語を進めたい。そんな思いを抱えていたが、あっという間に列車は次の駅に到着する旨のアナウンスを流した。僕は再び現実に呼び戻された。物語は七十五頁で閉じられた。

 列車は少しずつ速度を緩めながらプラットフォームに滑り込んでいく。大きい駅なので複数の車線が混ざり合っている。車線が切り替えられる結節点を走行すると、列車が大きく左右に揺れた。幾重にも幾重にも車線は切り替えられ、大きく揺さぶられながらプラットフォームに入り込んでいく。ようやく到着し、扉が開かれると下車を促すアナウンスが流れる。僕は手に持っていた小説を胸ポケットにしまった。それから網棚に置いていたスクールバッグを取り出した。バッグを肩に掛け、下車しようとした時、僕の視界にありえない人物が映った。束感のある太い黒髪。ブラウンがかった瞳。その瞳は特定の感情が読み取れず、様々な感情が混じりあったような不思議な魅力を宿している。すらりとしたシャープな鼻筋、薄めの唇。端正な顔立ちをした、美しいと形容できる青年。彼は僕の目の前に立ちはだかり、そして僕の肩にそっと手を置いた。
「おかえり。亜季」と徹は言った。
「どうして……」僕はこの言葉しか発することができなかった。