小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ベイクド・ワールド (下)

INDEX|33ページ/36ページ|

次のページ前のページ
 

『視点転換 III: 黒川沙希 (ось) ≒ 深瀬玲』

 今日も私はゲバルトの古書店のフリー・スペースで机に座り、小説を書いている。摺りガラス製の小窓から入射する陽光は乱反射し、机の上のノートに歪な光を落としていた。その光をぼんやりと眺めていると、その光が瞬間遮られた。外に人影が見えたので、きっと誰かが道路を通り抜けたのだろう。その誰かの足音は古書店の前で止まった。それから店先にあるセール本の入ったカゴに手を伸ばして、どうやら好みの本を探しているようだ。カゴの隣に陣取るボーダー・コリーのガアプは甘えるように鳴いた。その誰かは数分ほど本を吟味したあと、店内に入ってきた。レジに向かったようだったが、あいにくゲバルトは2階にいるようで不在だった。
「すみません」その誰かは声を発した。その声はまるですべてを包み込んでくれるような、春の陽光のように温かくて優しい声だった。気がつけば、私はフリー・スペースから顔を出して、その声の主を見つめていた。紺色のブレザーを着て、私と同い年くらいの男の子だった。瞬間、彼がこちらに振り返り、視線が交差する。私はすぐさま視線をそらし、フリー・スペースのなかに戻った。
「ああ、すまないね」ゲバルトは二階から降りてきて、男の子に声をかけた。レジに座り、男の子から本を受け取り、値札を確認した。「二冊で20円だね」しわがれた声でそう言った。
 男の子は支払いを済ませると、店内を見て回ることもなく、そそくさと店を出て行った。私は胸が大きく高鳴るような感覚をおぼえた。何故だろう。私は店先に出て、男の子の姿を探してみたが、そこにはもう彼の姿は見えなかった。私は足もとに近づいてきたガアプの頭を撫でてから、店内のフリー・スペースに戻った。

***********************************

 この部屋はすべての光を拒絶している。部屋の窓のカーテンはすべて閉じられ、光が漏れだすことのないように隙間にはガムテープが貼られている。だけど、もう今の私には光を怖がり、遮る必要はないのだ。亜季がこの暗闇の世界から光のある世界に連れ戻してくれた。私はカーテンの四方にまるで何かの呪いのように張り付けられたガムテープを掴み、勢いよく剥がし取った。長年張り付いていたせいか、カーテンの一部も少しだけ破けてしまった。すべてのガムテープを剥がしきったあと、カーテンを全開にした。目が眩むほどの光の洪水が部屋のなかに入り込んでくる。今まで、何年ものあいだ暗闇に囚われていた部屋に光が差し込むのだ。その光は今まで隠されていた部屋の至るものを露わにしていく。
 そこにはキャラクターもののシールがたくさん貼られた勉強机があり、時間を止められた数年前の服がひしめき合っているクローゼットがあり、そして私の思想が詰まった木製の本棚があった。今まで黒一色で形すら失っていたものたちが、ようやく実在を取り戻した。私は本棚に歩み寄り、棚におかれた本をひととおり眺めていった。ミヒャエル・エンデの『モモ』、『はてしない物語』、アストリッド・リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』、それからサンテグジュペリの『星の王子さま』……。そうだった、私は本を読むのが大好きな女の子だった。
 本棚の一番下の段を見ると、本ではなく手帳のようなものをみつけた。茶色の革製の小振りな手帳だ。それを手にとった瞬間、私は思い出した。私の記憶を覆い隠していた透明なベールがゆっくりと剥がされていく。私は小さい頃、押し花が大好きで、外に遊びに出かけては色々な花を採集して押し花にしていた。徹お兄ちゃんや亜季お兄ちゃん二人を連れて、一緒に花を採集することもあった。あの頃は外にあるすべてに興味があった。そのすべてを見てみたいと願ったことすらもあった。私は押し花手帳をぱらぱらとめくる。サクラ、カスミソウ、アネモネ、コスモス、タンポポ、ナデシコ、スターチス……。様々な花があの頃のまま、形を保っている。そういえば、手帳の中で私が一番気に入っていた花があった。なんという名前の花だったか。それは決して押し花には向かない花だった。何度も何度もその花のページを開いて見ていたから、手帳のそのページには癖がついていた。私はそのページを探し、開いてみる。
 そこには、沈丁花の押し花があった。色もかすみ、花弁もボロボロになりかけていたけれども、鼻を近づけると、沈丁花の特有の香りはあの時と同じように残っていた。私はこの香りが大好きだった。この沈丁花の花は、徹お兄ちゃんと亜季お兄ちゃんと三人で取りに行ったものだった。近所の公園の小山に咲いていた沈丁花。あの頃の情景が鮮明に脳裏によみがえる。そのあまりにも懐かしい記憶に涙がこぼれた。あふれでた雫は頬をつたり、沈丁花を濡らした。私は三人だったあの頃に戻りたい気持ちにかられた。
 しかし、もう徹お兄ちゃんはこの世界にはいないのだ。それでも、私たちはこの悲しみを乗り越えて生きていかなければならない。今、この世界に生きているのだから。たとえ、どんな痛みがあったとしても、この沈丁花のようにひたすらに生きていかなければならないのだ。