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姉妹

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 私がよく利用する自習室は、予備校生や司法試験の受験生が使うような、デスクを衝立で区切ったものとはかなり趣が違う。ほとんど密室である。防音が徹底しているのか、もともと人の出入りが少ないのか、よくわからないが、仕事をしている間、空調以外ほとんど物音がしない。デスクを離れるのは、トイレに行く時か、ラウンジでお茶を飲んだり食事をしたりする時だけだが、その間も、滅多に他人と出くわすことがない。出入りはオートロック式で、管理人も電話で呼び出す形である。つまり、ここにいるかぎり、仕事だけに集中できるのである。
 営業時間は、朝の五時から夜中の十二時まで。その間、何時間使ってもよい。だから、どんなにスケジュールに狂いが生じた時でも、ここに一週間も通えば、遅れを取り戻せるはずだった。
 しかし、今回の仕事は、そううまく運ばなかった。
 自習室のデスクに到着すると、ノートパソコンを開いて仕事の準備に取りかかる。ここでも、私は深く長い呼吸を心がける。頭脳の処理速度と肉体を一体化させようと務める。そうしないと、後でストレス性の胃痛に苦しめられたり、ひどい疲労感に悩まされたりするからだ。だが、今回の仕事は、私にそんな余裕を持たせてくれなかった。資料を開いて読み返し、十種類以上のオンライン辞書や事典を参照し、類似文献を検索しているうちに、呼吸のことなど頭から弾き飛ばされている。
 いくら丹念に下準備をしても、今日一日の仕事のアイデアが固まらない。かといって、ぐずぐずしているわけにはいかない。デッドラインは迫っているのだ。見切り発車で文章を書き起こそう、強引にでも仕事を前に進めよう。そう思いながら、毎日のノルマの分量まで、英文を書きためる。こういったやり方が、あとでとんでもない量の後戻り作業を生み出す可能性があることは、十分に承知の上である。
 行きつ戻りつしながらも、ようやく最後まで書き終えたのは、期限の四日前だ。見直しには、三日間だけしか残されていない。あまりに短い。四日後には、知り合いの米国人エンジニアに原稿を渡す手はずになっていた。彼が二日かけて校正し、最終原稿をクライアントに納入する。
 その米国人は、抜群に頭が切れ、表現力の豊かな男ではあるが、頼るには限界がある。その仕事の性質から言って、彼は品質レベルが六か七のものを八か九にすることはできるが、三しかないものをいきなり九まで引き上げることはできない。元原稿の出来映えが、彼の仕事の効果を左右するのだ。
 
 その夜、夕食後に、久しぶりにウィスキーを飲んだ。妻は、グラスを持つ私をちらりと見たが、何も言わなかった。長い間一緒にいるのだ、私がひどく大きなプレッシャーの中にいることは気づいているのだろう。子供たちが幼ければ、気晴らしになるような会話もできたろう。しかし彼らはすでに成人し、家を出ていった。
 酒を飲めば少し気が楽になるだろうという期待は甘すぎたようだ。酔いが回るにつれ、ひどく惨めな気持ちになった。もう自分の能力もこれまでではないか、年齢的に限界なのではないか。そんな思いが交錯する。
 私が、サラリーマンを辞めてこの仕事を始めたのは、バブルが弾ける直前だった。つまり、最悪のタイミングで独立したのだ。つるべ落としのように景気が冷え込んでいく中、家族を抱えて、私は馬車馬のように働いた。少しでもお金に換えられるような仕事であれば、何でも引き受けた。
 その中で、人間のありとあらゆる醜態や悲惨を見てきた。嘘つきや誤魔化しに出会うのは日常茶飯事だ。
 先月まで羽振りのよかったコンピュータ販売会社の社長は、サラ金から大金を借りた後、行方をくらました。半年後、見つかった時には、ホームレスの仲間に加わっていた。皮肉なことに、彼を見つけたのは、六本木で豪遊していた頃のなじみのホステスだった。
 編集プロダクションを経営していた友人は、何度も自殺を試みた。奥さんは、彼を思いとどまらせようと、全ての生命保険を解約した。その直後に、彼は再び自殺を試み、ついに成功してしまった。
 緊急の支出があるからと、町内の人間から金をかき集め、そのまま姿を消した町内会長もいる。印刷所を経営していた。残された奥さんと息子が、畳に頭をこすりつけ、泣きながらヤクザに謝っていた。
 毎日、パニックの街の中を、裸足で叫びながら走っているようなものだった。
 酔うにつれ、当時の辛い記憶が私を苛む。
 私が、外国人の僧侶から呼吸法を習ったのは、その頃だ。自分自身は、宗教に全く興味を持たない人間だった。ただ、その呼吸法をマスターすることで、他の全てのことに煩わされず、ひたすら仕事への集中力を高め、生き残ろうと考えただけのことだ。
 
 見直しの初日。私は暗い気持ちで家を出た。呼吸はままならず、頭が空しく回転し、数息観を何度もやりなおさなければならなかった。あの姉妹を見たのは、その朝のことだった。
 自習室に入り、デスクでノートパソコンを立ち上げた時、姉妹のことなど全く忘れ去っていた。気になるのは、ひたすら、昨日まで書きためた英文の出来映えであった。画面上で文章を読み始めると、それは予想以上にひどいものであった。情報量の点でも、明瞭さの点でも、文体の点でも、ひどく劣っている。これをたった三日で手直し、自分の納得できるレベルまで引き上げるのは不可能である。
 私はパソコンの前で頭を抱えた。絶望的な気分の中で、そのファイル自体を消去したい衝動に何度もかられた。
(時間の見積もりを間違えてしまったのだ。こんなこともあるさ)
 自分にそう言い聞かせ、文章に手を入れ始めた。しかし、三日間という枠内で、文書に根本的なメスを入れることは不可能だ。せいぜい、文章を足したり削ったりして、体裁を取り繕う程度のことしかできない。しかし、そうであっても、何もしないよりはずっといい。ともかく、これが対価を伴う「仕事」である以上、私はできるだけのことをやる義務がある。
 夕方、仕事を終えて、自習室を出た。すでに夜の帳が降りていて、空気は身震いするほど冷え切っていた。いつものことではあるが、帰りも歩くことにした。往きと同じく、自己流の数息観から始まる一連の呼吸法を実践するのだが、何度も挫折した。失敗への怒り、後悔、そして虚脱感が繰り返し身体を過ぎていった。
 見直しの二日目。ガラス窓を打つ雨の音で目を覚ました。カーテンを開いて外を見ると、強い風が雨粒を四方八方に吹き散らしている。銀杏並木が大きく枝を揺らしていた。最悪の天気だ。私自身も、なんだか熱っぽく、その日は自習室に行くのを諦めた。かといって書斎にこもる気もせず、寝室にノートパソコンを持ち込んで、仕事の続きに取りかかった。作業は思いの外順調に進み、夕方には全ての文章修正を終えることができた。
作品名:姉妹 作家名:鬼火