小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

姉妹

INDEX|1ページ/3ページ|

次のページ
 
 不思議な経験をした。
 いや、不思議ではないのかもしれない。

 私は早朝の道を歩いていた。予約してある自習室に行くためである。それは、自宅から私鉄の駅で五つ先、都心に近いターミナル駅にある。そこまで歩いていく。
 電車に乗らないのは、健康に気を遣っているからではない。頭の中をリセットし、日中の仕事の集中力を高めるためだ。だから、この一時間あまりの行程の間、仕事のことなど一切考えない。他のことも考えない。ただひたすら、自分の呼吸に集中する。
 それは、東南アジアの某国から来た僧侶に教えてもらった呼吸法だ。瞑想修行の一つだと言うが、私はそれを自分用に少し作り替えている。背骨をピンと立て、用心深く足を繰り出しながら、足裏の踏みしめる感覚と吐く息を同期させるのである。一つ、二つと、息に合わせて数をかぞえる。それを続けていくと、やがて心が落ち着き、息が深くなり、同期が外れる。頭の中から数字も消え失せる。しかし、それでも、身体の動きと呼吸は一体である。調和したまま、揺るがない。

 その日も、私は自習室を目指して歩いていた。真冬の朝六時は、まだ深夜の延長線上にある。町は闇に包まれ、所々で蛍光灯が冷え切った光を地面に落としている。先週積もった雪の残りが、道の端で白く光る。
 自習室までのコースは、自分の中で決めてある。大通りや線路脇をなるだけ避けて、住宅街の細く静かな道を歩く。突然脇をすり抜ける自転車や、エンジン音の大きな日配のトラックや、鋭い金切り声を上げる電車に、呼吸のリズムを崩されたくないからだ。
 その日の私は、まったく不調だった。集中できず、息が乱れ、身体の調和を感じることなく歩き続けなければならなかった。歩いていくうちに、空が明るくなり、鳥たちの鳴き声が聞こえてきて、町は朝の空気に包まれる。その頃には、私はすでに住宅街の端にいて、残りがあと一駅分というところまできていた。
 身体は暖まり、少し汗ばんでいる。帽子を取り、マフラーをほどき、手袋を脱ぎ、ダウンジャケットのジッパーを開けた。新鮮な冷気が身体に潜り込んでくるが、なぜか、心地よさを感じない。
 そのとき、前方の細い路地から、女性が二人、突然現れ、私の前を歩き始めた。私は、その二人に目を奪われた。というのは、二人の背格好、出で立ちが、通常ここら辺りを歩いている学生や勤め人とは、明らかに異なっていたからだ。
 二人とも、外国人である。私の前を横切ったとき、顔立ちがはっきりと見て取れた。浅黒く光った肌、大きな目、濃い眉毛。強く波打った頭髪。二人とも、顔の造りが双子のように似ており、しかも、どちらも異様に背が低い。おそらく百五○センチにも届かないであろう。しかし、子供ではない。撫で肩の下にしっかりと筋肉と脂肪を蓄えた中年女性だ。三十代の後半といったところだろうか。肩に、大きく膨らんだバッグをかけている。
 服装も、明らかに日本人の感覚を飛び越えていた。二人ともマフラーのような厚手の布で頭を覆い、首に巻き付けている。もっこりとしたセーターの上に、一人はジャンパー、もう一人はハーフコートを着込んでいる。下は、まるでタイツのように足首までぴったりとしたカラージーンズとスニーカーだ。赤や黄緑や水色が雑多に全身を包んでおり、二人が並んで歩く姿は、色彩の変化に乏しい住宅街の中で弾けている。
 その姉妹らしき二人は、私の目の前に現れた時から、歩いている間中、ずっとしゃべっていた。その声は、甲高くなったり低くなったりするのだが、ひとときも途絶えず会話を続けている。私は最初、彼女たちをインド人ではないかと思ったのだが、私の耳に届く音には帯気音や反舌音のようなものは混ざっていない。膠着語によくあるような、平坦で軽い音調である。インドだかネパールだかバングラデッシュだか知らないが、なんとなく、その周辺の少数民族が話す言葉のように思えた。
 二人は、私の数メートル前を歩いている。O脚ではないのだが、ややガニ股気味に足を投げ出している。悠然とした歩き方だ。なのに、私は彼女たちを追い抜くことができない。別に二人にペースを合わせているわけではない。いつもの通り、普通に歩いている。しかし、私と彼女たちの距離は縮まらず、離れもしない。二人の会話する声が私にまとわりつく。
 そんな状態で何分か過ぎた。
 私は、胸に軽い痛みを覚え、立ち止まった。民家の植え込みの横にバッグを置き、中からポットを取りだして、暖かい麦茶を喉に流し込んだ。大きく息をした後、ポットをバッグに戻し、再び歩き出そうと前を見たとき、二人の姿は消えていた。

 私は、いつも自習室を利用しているわけではない。自由業の気楽さで、普段は自宅の書斎でのんびり仕事をしている。自習室を利用するのは、よほど切羽詰まったときか、高い集中力を必要とするときだけである。自宅の書斎でやっていても、どうもまとまらない、はっきりしない、それに引きずられてスケジュールが遅れ気味になる・・・そんなとき、わざわざ時間をかけて自習室まで歩き、違う空気の中で状況を突破しようとするのだ。
 私の仕事は、技術文書の翻訳である。クライアントから原稿を渡されると、その分量や難易度に応じて納期をクライアントに約束する。長年の経験から、この見積もりが大幅に狂うことは、ほとんどない。あとは、一日当たり何枚こなせば納期に間に合うかを計算し、それに沿って仕事を進めていくだけである。
 しかし、そんな型に収まらないアドホックな仕事も多い。原稿がなく、資料だけを渡され、自分で日本文なり英文をひねり出して、一定レベルの情報を詰め込んだレポートやマニュアルを作らなければならないという場合だ。そんな依頼があったとき、締め切り日の設定には、かなり細かい神経を使う。翻訳のようにおおざっぱな見積もりができないからだ。資料にざっと目を通し、簡単な下調べも済ませて、必要となる時間を割り出し、クライアントと納期を約束する。しかし、自分では十分な時間を確保したつもりでも、見込み違いは発生する。
 今回の場合が、まさにそれである。
 その文書がクライアントにとってきわめて重要なものであることは知っていた。自分が、ここしばらく英文を書く仕事をしておらず、少し腕が鈍っているかもしれないという思いもあった。そんなことがプレッシャーになったのかもしれない。
 最初から仕事が難渋した。自分の考えが散乱してまとまらない。考えるべきパラメータが多すぎるように思えて、いつまで経っても英文が確定しない。書いたり消したりを続け、少し進んだかと思うと以前の部分が気になり始め、前に戻って考え直したり。
 そのうちに、予定が次第に遅れてくる。焦る気持ちが、さらに心を散乱させる。
 そんな泥沼の中で、自習室へ行くことを決心した。納期まであと半月という時点だ。
作品名:姉妹 作家名:鬼火