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あなたの命を私にください 第一話

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 翌日の夜、タナベはカナコのアパートの前にいた。時刻は午後10時45分、仕事を終え、職場からそのままここへやって来た。アパートの前に立ったタナベは、以前と同じように一種の寂寥にも似た不思議な感覚にとらわれた。しかし、タナベの心中を占めているそれとは対極にある感情により、すぐにかき消されてしまった。少しの間、路上から201号室の方向を見ていたタナベは、やがてゆっくりとした足取りで2階に続く階段へ向かった。カン、カン、という足音が、妙に大きく響いているように思われた。

 201号室のドアの前に立ったタナベは、微かな違和感を覚えた。ドアの脇にある台所のガラス戸は暗く、室内に照明がついてないことが分かる。ただ、弱々しい赤っぽい光が、すりガラスを通して微かに見えた。カナコは部屋にいるのだ。だが、天井の蛍光灯をつけず、小さな赤いランプだけをつけている。微かな違和感は少しずつ膨らんで、やがて不安へと変質していく。
 ブザーを押してみたが、返事はない。ドアノブに手をかけることを躊躇っていたタナベは、やがて意を決して、ゆっくりとドアを手前に引いた。カギは、かかっていなかった。
 カナコの部屋は狭く、入り口を入ってすぐ台所、その奥が6畳間になっていて、テレビやベッドが置かれている。タナベの住むアパートとよく似たつくりだった。
 タナベは、暗い室内を注意深く覗き込んだ。壁際に置かれたベッドの枕元のランプの赤い光が、室内にいる二人の男女の様子を照らしている。
 ベッドに腰掛けた長身の男がいる。男は両脚を広げて座っていて、その中央で黒い影が蠢いている。赤い光に照らされた栗色の髪は、カナコのものだった。男の両脚の間を覗き込むようにしているカナコの表情は、見ることができない。タナベの方へ向けたままの後頭部が、工場の機械のように規則正しい運動を続けていた。
 やがて、男が微かなうめき声を発した。そして、その声を合図に、機械の動きも止まった。
 手の甲で口元を拭いながら、ゆっくりとカナコがタナベに顔を向けた。知っていたかのように。
「いたんだ」
 暗闇の中では、タナベの表情もよく見えない。タナベの影は微動だにしない。
「もう少し、遅く来てくれたらよかったのに」
 カナコの声が、いつもと同じトーンで小さなアパートの部屋に響いた。
「どうする?入ってく?」
 タナベの表情は見えない。タナベの心を埋め尽くしている感情を知る者もいない。
 そのままの状態が、1〜2分のあいだ続いた。その間、三人の内で口を開く者はいなかった。
 そして、タナベが動いた。踵を返し、階段に向けて歩いて行った。カン、カンという階段を降りる音が、部屋の中にも幾度か響いた。

「じゃあ、後は上手くやってくれよ」
 薄笑いを浮かべた大助がそう言った。カナコは、黙ってドアの方を見つめている。自分の方へ顔さえ向けないカナコの態度に多少の苛立ちを覚えつつも、まだ大助の下半身に残る快感の余韻が、それをかき消した。
 大助は、よっと声を出しながら立ち上がり、不必要に素早い動作でズボンを上げベルトを締めた。カナコも、大助から顔を背けたままで立ち上がり、台所へ向かった。ガラスのコップに水道の水をいっぱいに満たし、口元へ運んだ。何度も口中でグジュグジュと大きな音をたてた後、勢いよくその水を吐き出した。そして、再びグラスの水を口に含む。その脇を、大助が何かブツブツと言いながら出て行った。

 それから6日が過ぎた。以来、カナコはタナベの顔を見ていない。早朝、毎日のように朝食のパンと牛乳を買いにくる老人をレジから見送った後、あくびをかみ殺しながら制服に袖を通している店長と入れ替わりに、カナコは自分のシフト勤務を終えて、コンビニを出た。
 裏口から外へ出ると、まだ早朝の新鮮な空気が辺りに漂っているのが感じられた。しかし、気温はすでに25℃を上回り、予報では、8月の終わりの今日も最高気温は30℃を超えることになっていた。
 カナコは、夏の暑さが嫌いではない。冬の凍える寒さに比べれば、酷暑など気にもならない。ずっと夏が続けばいいのに。毎日気温が30℃まで上がればいいのに。幼い頃にそう思ったことさえある。突き刺す陽光、青い空をどこまでも高く登る白い雲、いつまでも鳴り止まないセミの声、額を流れ落ちる汗、夕暮れに遊ぶ子供達の影、人が絶えることのない夜の繁華街。そうした夏の光景は、カナコという空洞のガラス瓶を満たす、青く透き通った水のようであった。
 まだ低い位置にありながら、既に白熱灯の如く静かに燃えている太陽を少し眺めた後、カナコは紅いハンドバッグから携帯を取り出した。携帯を開いて着信を確認すると、最後の着信記録は2週間近く前だった。カナコに連絡をしてくる人間は、ごく限られている。一番最後の着信は、店長からだった。着信のないことで特に何かを思う様子は、カナコにはない。携帯をバッグにしまい、そのまま歩き出しただけだった。

 その日、カナコはアパートに帰宅するとすぐシャワーを浴びた。そして、カーテンを引いたままの暗い室内でベッドに入り、夕方まで眠った。目が覚めた時、時刻は6時を少し過ぎたところだった。ベッドから起き上がると、台所へ行って顔を洗い、うがいをして、カーテンを開け放った。オレンジ色に染まるガラス戸を開けると、蒸し暑い外気がクーラーの効いた室内に勢い良く流れ込んでくる。窓からは、隣のアパートの窓と、綿菓子のように膨らんだ真っ白い雲が夕暮れの空に浮かんでいるのが見えた。ガラス戸を閉じると、カナコは台所へ戻って、冷蔵庫の中からヨーグルトを持ってきて絨毯の上に座り、クッションを背もたれにしてそれを食べた。そして、食べ終わると、紅いハンドバッグから携帯を取り出し、開いて着信を確認した。最後の着信は、朝に見た時と変わっていない。カナコは、携帯をテーブルの上に置いたまま、じっと見つめていた。
 
 カナコがテーブルの上を見つめたまま、かなりの時間が経過した。その間、カナコはほとんど動かず、ほぼ同じ姿勢を保ち続けていた。そして、もう間もなく日付も変わろうとする時刻、不意に着信音が鳴り響いた。その時をずっと待っていたはずのカナコは、しかし、バイブレーション機能の振動とあいまって耐え難い騒音を発しているその携帯電話を、十数秒の間、ただ見つめていた。そして、それから、ゆっくりとした動作で、携帯を手に取った。
「もしもし」
 抑揚のない声と感情の読み取れない表情。携帯電話を自分の右手に持って会話をするカナコの姿は、いつもと何ら変わるとこがない。ただ、他の誰も気がつかないほどであったが、その声が、ほんのわずかだけ高くなっている。
 携帯電話の通話口からは、不必要に大きく甲高い男の声が漏れてきていた。その声を右耳で受けとめるカナコの顔が、わずかに歪んだ。歪んだ表情のまま、カナコはその声を耳に浴び続けた。そして一言「わかった」と声を発すると、まだ相手の声が漏れ続けているうちに通話を切った。