あなたの命を私にください 第一話
アパートの自室で電話を受けてからおよそ1時間後、カナコは古びた雑居ビルの前に立っていた。事務所などが多く入居しているそのビルは、飲食店などの多い歓楽街からは少し離れた場所にあって、深夜の街中でひっそりと佇んでいる。カナコは、右のこめかみの辺りを一筋の汗が伝うのを感じた。夜半を過ぎても、8月の終わりの夜気はじっとりとカナコの全身にまとわりついてくる。こめかみから右の頬まで流れ落ちてきた汗を拭うこともせず、カナコはビルの上方を見上げていた。8階建のビルの屋上を、正面玄関前にいるカナコの位置から見ることはできないが、そこにある「何か」を見通しているかのように、しばらくの間、屋上の辺りを見上げていた。そして、入り口正面の奥まったところにあるエレベーターに向けて歩き出した。
そのビルのエレベーターは7階までだった。7階でエレベーターを降りたカナコは辺りを見回し、左右に幾つかの事務所を並べた廊下の突き当たりにある非常階段を見つけた。ビルの外から響く車の騒音以外には何の音も聞こえない廊下を、カナコは少し足早に歩いた。そして、屋上へと続く階段を登った。
鍵のかかっていない金属製のドアを開けると、カナコは狭い屋上に出た。近隣のビルから降り注ぐネオンの光が、暗闇の中にある屋上の風景を、不完全ながらにカナコの眼前に浮かび上がらせた。入り口の後方に、給水タンクを上部に備えた管理室らしき構造物がある。屋上の周囲は、低い柵で囲まれていた。そして、正面の通りに面した柵の前に人影があった。人影は、簡単に乗り越えられる低い柵に両手を掛けた状態で、正面のビルの窓を見ているようだった。人影は、カナコの存在に気づいていない。やがて、人影は、極めてゆっくりとした、ためらうような動きで、右足を柵の上に上げかけた。それから、同じくらいゆっくりとしたスローモーションのような動作で、上げかけた右足を地面に着地させた。屋上の入り口の前に立って人影の挙動をじっと見ていたカナコは、人影の右足が着地したのを合図に、タナベの方へ向けて歩き出した。
「今、そこから飛び降りようとしてたんでしょ?」
8階建のビルの屋上で、腰の高さほどの柵を跨ごうとしていたタナベの姿が、道路を横断するためにガードレールに足をかけている人の姿のようにカナコの目には映っているのかもしれない。お箸はおつけしますか、と客に尋ねる時とまったく同じ声の調子でタナベに聞いていた。
「死のうとしてたんでしょ、今」
タナベは答えなかった。ただ、何か異様なものを見るような目で、カナコを見ていた。
「自分で自分の命を棄てようとしてたんでしょ、今」
暗闇が占める屋上に、カナコの声がほんの少しだけ熱を帯びたように響いた。
「棄てるんなら、要らないんだよね。あなたの命」
力なく両腕をダラリとぶら下げているタナベには、カナコの声が届いていないのかもしれない。ただ、タネの分からない手品を見せられた観客のような顔をしていた。
「ねぇ、要らないんでしょ?」
「生きる目的もないし、生きていても楽しくも何と
もないって、人生は不快で苦痛なことばかりだって、生きることが苦痛なら、何のために毎日苦労して働いているのか分からないって、そう思ってるんでしょ?」
タナベは黙っている。
「じゃあ、私にください。あなたの命、私にください。」
「あなたが持っていてもしようがないなら、私が使ってあげる。大事に使うから、あなたの命。」
タナベの顔には何の表情も浮かんでいない。虚空を見つめる人のような顔で、カナコを眺めていた。
8月の終わりの生温かい微風が、二人の間を音もなく吹き抜けて行った。左右のビルは、二人のいるビルより少し高くなっている。そのうちの右隣のビルの屋上では、聞いたこともない企業の名前のネオンが、下品な色で赤と青に点滅していた。
いつしか、カナコの右手は何かを握っていた。カナコの手の中にあるそれは、ビニール袋のようなもので覆われていて、暗闇の中ではそれが何なのか分からない。
カナコは、その右手をゆっくりとタナベの方へ突き出した。
「この注射器の中には薬が入ってる。この薬を使えば、苦しまずに死ねる。タナベさんも、どうせ死ぬなら楽に死ねる方がいいでしょ?」
いつの間にか両足を投げ出すようにしてコンクリートの地面に座り込んでいたタナベは、虚ろな目をカナコに向けた。眼球はカナコのいる方角に向いているものの、その視界がカナコを捉えているかどうかは分からない。
カナコはタナベに歩み寄った。座り込んだままのタナベを見下ろしながら、カナコはビニール袋の中身を取り出して、タナベの眼前に突きつけた。
タナベは動かない。放心したように、差し出された注射器を見つめている。
「それとも、死にたくないの?」
タナベは答えない。ただ、注射針の先端を見つめている。
「毎日したくもない仕事をして、生きていても何の目的もなくて、生きることが楽しいわけでもなくて、人にも騙されて、裏切られて、それでも生きていたい?」
点滅する赤と青の光が、カナコを背後から照らし出している。カナコは、タナベの両の瞳の奥を覗いた。
ほんの一瞬、漆黒の瞳の奥が微かに揺らいだ。そして、再び闇に閉ざされた。
タナベは、静かに、自らの右腕を伸ばした。その先にある注射器の針が、赤いネオンに照らされてぼんやりと光っていた。
小柄な中年の男と大助の二人によって、ビルの前に停められた白いハイエースの中にタナベの身体が運び込まれていった。その一連の作業を、カナコは黙って見つめていた。
「ああ、これはいいですよ。まだ若いし健康そうだし」
クヌギの木をよじ登るカブトムシを見つけた子供のように目を輝かせて、小柄な坊主頭の男が言った。
「じゃあ、あとはいつも通りに」
ハイエースの運転席に乗り込んだその男は、カナコと大助にそう言って去って行った。
「あれ、どこに運んでるんだろうな」
遠ざかって行く車の後方をぼんやりと眺めながら、何気無く大助が呟いた。
「知らない」
そう返事をしたカナコは、既に歩き出していた。
(第一話 終)
作品名:あなたの命を私にください 第一話 作家名:hamachi