あなたの命を私にください 第一話
注文した料理が出てくるのを待つ間、二人はワイングラスを傾けながら言葉少なに外の風景を眺めていた。やがて、タナベがジャケットの右ポケットから何かを取り出してテーブルの中央に置いた。テーブルに置かれたものは小さな箱で、タナベがその蓋を開くと、中にはイヤリングが入っていた。小さな紅い石と金でできたそのイヤリングを、タナベは箱ごとカナコの方に押しやった。
「これ、そんな高いものじゃないんだけど、似合うかなって思って」
またぎこちない喋り方に戻ったタナベが、しかし、まっすぐにカナコを見つめて言った。このレストランの弱い照明の下でも、顔が紅潮しているのが分かる。
「えっ、でも・・・」
カナコはそのまま黙ってテーブルの上のイヤリングを見つめた。
「ダメかな?つまり、その、何て言うか・・・」
言いたいことは喉まで出かかっているはずなのに、どうしてもそこから先が告げられない。まるで、間違って飲み込んだ異物を必死で吐き出そうとしている人のような素振りを繰り返すタナベを見て、カナコは微笑んだ。そして、ゆっくりとテーブルの上の小箱に手を伸ばした。
「ありがとう、タナベさん。嬉しい」
そう言ってカナコは、天井の照明を反射して紅く輝くイヤリングの片方を右の耳のそばへ持っていき、「どう?」という仕草をタナベに向けた。
「すっごくイイ、似合う、超似合う、ホントに」
高ぶる感情を抑えきれないタナベが、身を乗り出すような勢いで言った。
「何かあんまり似合う似合うって言われると、逆に似合ってないって言われてるみたいなんですけど」
その言葉に、明らかに動揺したタナベが聞き返した。
「えぇ、じゃ、じゃあ、何て言えばいいの?一回だけしか、似合うって言っちゃいけなかった?」
そこまで言って、タナベはようやく、おかしそうに笑みを浮かべるカナコの表情に気がついた。
「えっ、なんだ、怒らせちゃったのかと思った。違った?」
「怒ってないですよ。ちょっと言って見ただけなのに」
おかしそうに笑うカナコを見て、タナベもやっと落ち着きを取り戻し始めた。そこへ、先ほどの女性店員が注文した料理を持ってやってきた。
「ほら、食べましょう。すっごい美味しそう」
テーブルに置かれた皿に、カナコはイヤリングの時よりも目を輝かせてタナベに言った。
3杯目のワインを飲み干して、タナベはグラスをテーブルに置いた。カナコのグラスに入っているのは、最初に注がれたワインのままだった。元々酒が強いようには見えないタナベだったが、3杯目のワインで、だいぶ酔いが回ってきた様子だった。普段よりも饒舌になり、自分の過去や身の上について語り始めていた。
「そういえば実家にもしばらく帰ってないなぁ。まぁ、帰ったって、早く結婚しろとか、先のことをちゃんと考えてるのかとか、そんなことしか言われないから、帰りたくもないんだけど」
タナベは、そこで言葉を切った。ちらりとカナコの方を見た後、窓の外に目を移して続けた。
「でもさぁ、そんなこと言われなくたって分かってるんだけど、今の状態じゃ、とてもそれどころじゃないんだよね」
カナコは黙って聞いていた。
「今の世の中じゃ、とりあえず正社員で仕事してられるだけどもマシな方なのかもしれないけど、景気は悪いし、ノルマはキツイし、それで大した給料がもらえる訳でもないし」
タナベはさらに続けた。
「カナコちゃんは俺より若いからそんなこと考えもしないだろうけど、オレはいつも仕事しながら、何の為に毎日こんなことしてるんだろうって思うんだよ。毎朝眠いのをこらえて起きて、一日中あっちこっち歩き回らされて、どんな客に何を言われたってヘラヘラ愛想笑いして、無能なくせに口やかましい上司にも我慢して、それで給料がそこそこもらえるならまだいいけど、実際は安月給で貯金もなかなかできないし、ホント、生きていく為には仕方ないと思ってずっとやってきたけど、これじゃあ生きるために働いてるのか、働くために生きてるのか分かんないよ」
ここまでのタナベの話を、カナコは真っ直ぐにタナベの目を見つめながら聞いていた。その様子は、タナベの心情に対する深い共感と同情の表れと言って良かった。少なくとも、タナベにそう思わせるには十分だった。
「あ、ゴメン。こんな話面白くないよね、ただのグチだし・・・」
急に我に返ったようにタナベは言った。そして、カナコから視線をそらして窓の外を見た。
「大変ですよね、生きていくのって」
静かに、カナコが言った。その言葉に反応して、タナベの顔が再び正面に向けられた。カナコは、はじめから、真っ直ぐにタナベの方を見ていた。そして、それ以上何も言わなかった。
二人はレストランを出た後、カナコの住むアパートへ向けて歩いた。途中、タナベはレストランで言いたいことを全て出し尽くしてしまったように黙ったままだった。カナコも何も話さなかった。15分ほど言葉のないまま歩き続けて、二人はカナコのアパートの前に着いた。
古いアパートだった。所々ペンキが剥げて錆びついた階段、経年の長さを思わせる壁のシミの数々、点滅を繰り返す蛍光灯、生活の気配が希薄な廊下。そして、ただ古いというのとは何かが違う、一種の寂しさが漂っていた。
「ここの201号室」
カナコが2階の端を指差して言った。
「寄ってく?」
何でもないことのようにカナコは聞いた。タナベは、カナコのその言葉をまるで予期していなかったように困惑した顔になって、少しの間、黙っていた。そして、
「いや、今日は、帰る」
と言った。妙な表情をしていた。
「そう」
特に感情のこもらない声でカナコが言った。
「今度、遊びに来て。休みの日は、夜、部屋にいるから」
タナベにそう告げて、カナコは2階の部屋へ階段を上がって行った。タナベはアパートの前で、カナコが部屋の中に入って見えなくなるまでずっと見ていた。
翌日の夜11時、いつものようにタナベがコンビニへ来た。普段と同じように弁当やパンを買い、カナコと雑談を交わし店を出た。それから2日経って、またタナベはコンビニを訪れた。今度はレジのカナコに声をかけた後、雑誌をしばらく立ち読みし、それから缶ビールや酒のつまみのようなものを幾つかカゴに入れてレジへ持ってきた。
「今日はお休みですか?」
カナコが笑顔で尋ねた。タナベは、いつものスーツ姿ではなく、黒のTシャツにジーンズを履いていた。
「ああ、うん。でも、何にもすることが無くてさ。酒でも飲もうかと思って」
聞かれもしないことまで答えて、ビールとつまみの入ったレジ袋を受け取った。
「ありがとうございました、ゆっくり休んでくださいね」
カナコからのその言葉を背後で受け取ったタナベは、思い出したように振り返って言った。
「明日、水曜だよね。休み?」
自然な流れを装って、タナベがカナコに尋ねた。
「うん。明日は、休み」
「ああ、そうなんだ」
妙な返事をして、タナベは店を出て行った。カナコは、タナベが出ていったドアをじっと見続けていた。
作品名:あなたの命を私にください 第一話 作家名:hamachi