あなたの命を私にください 第一話
狭い部屋だった。玄関のドアを入るとすぐに小さなキッチンがあり、その奥は6畳ほどの広さの洋室になっている。右の壁にはベッドと洋ダンス、左の壁にはテレビが置かれていて、その間のわずかなスペースには座椅子がベランダの方を向いた状態で置かれていた。特に汚らしいということもないが、いかにも一人暮らしの男の部屋という印象であった。少しの間、もの珍しいような目で部屋の中を観察していたカナコは、改めてタナベの方へ向き直った。タナベは、部屋の中央より少しベランダに近い位置に立っている。時間帯を考えれば当然だが、濃いグレーのパジャマを着ていた。そして、最後にカナコと会った時よりも顔色が悪かった。
「風邪で寝てたの?」
カナコの質問に、すこし決まりの悪いような顔でタナベが笑った。
「熱が39度まで上がってさ。さすがにこれじゃ仕事にならないから、2日前から休んでるんだけど、なかなか熱が下がらなくてね」
立っているだけども身体に堪えるらしく、タナベはそこで言葉を切ってベッドの上に腰掛けた。そして、いかにも難儀そうな大きなため息をついた。
「カナコちゃんも座ってよ。狭いところだけど」
そう言って、タナベはカナコに座布団を勧めた。カナコは立ったまま、座布団ではなくタナベの方を見ている。
「ごはんは、ちゃんと食べてる?」
「いや、何にも食べたくなくって。薬は飲んでるけど」
立ったままのカナコを見上げる形で、タナベがそう答えた。その答えを予期していたと言わんばかりに、カナコは左手にぶら下げていたレジ袋をタナベの眼前に突き出すようにして言った。
「おかゆくらい食べた方がいいよ。レトルトだけど、作ってあげるから」
カナコはタナベの返事も聞かず、そのまま向きを反転させて台所へ向かった。
およそ10分後、湯気の立つおかゆの入った茶碗と真っ赤な梅干が2つ載った小皿をトレイに載せて、カナコが戻ってきた。
「悪いね。こんなことまでしてもらっちゃって」
タナベの顔色は相変わらず悪いままだが、その声にはどこかしら明るい響きが感じられた。
「食べさせてあげようか?」
少し悪戯っぽい笑みを浮かべたカナコが、そう尋ねた。
「い、いや、いいよ。自分で食べられるから」
妙に甲高い声で答えながらおかゆの入った茶碗をカナコから受け取って、タナベは食べ始めた。その様子を、カナコは無言で見守っていた。温かい食事を摂ったことで、土気色のようだったタナベの顔にも赤みがさした。
「ごちそうさま。ホントにありがとう、いろいろしてもらって」
食事を済ませて風邪薬を飲んだ後、改まったようにタナベが言った。顔の血色も良くなり、穏やかな雰囲気でカナコに話しかけるタナベは、普段の様子と少し違って見えた。
「もう寝た方がいいよ。明日も仕事は休むんでしょ?」
「ああ、明日中に何とか直さないと。さすがにこれ以上休んでたら、クビになっちゃうからね」
冗談とも本気ともつかない言い方でそう言ったタナベは、ベッドの中にもぐり込んだ。そして夏用の薄い掛け布団から顔だけ出して、座布団の上に座っているカナコに言った。
「今日はありがとう。カナコちゃんも、もう帰りなよ。もう大丈夫だから」
「うん。じゃあ、後片付けが済んだら帰るね」
カナコは立ち上がって、空になった茶碗と小皿を台所へ運んだ。タナベはベッドの中で目を閉じながら台所から響くカチャカチャという音に耳を傾けているうちに、やがて眠りへと落ちていった。
タナベが目を覚ますと、隣にカナコがいた。絨毯の上に座って、タナベの方をじっと見ている。
「今、何時?」
「もうすぐ6時」
「ずっと起きてたの?」
「うん」
タナベは黙った。言葉を探しているのだろう。だが、なかなか出てこない。
「少しは良くなった?」
カナコが先に口を開いた。
「ああ、だいぶね。カナコちゃんのおかげだよ、ありがとう」
「よかった」
カナコはタナベから目を逸らさずにいた。
良かった。カナコは心の中で、もう一度、そうつぶやいた。健康なままでいてもらわなければならないのだから。
タナベが再びカナコのいるコンビニへやって来たのは、それからさらに4日が過ぎた後だった。いつものように弁当やパンをオレンジ色のカゴに放り込みながら、どこかぎこちない様子で、レジにいるカナコの顔をチラチラと覗き見ていた。
「この間は本当にありがとう。おかげですっかり良くなったよ」
カゴをレジ台に置くとすぐに、タナベは喋りだした。
「それでさ、そのお礼に、今度食事でもどうかなって思ってるんだけど」
カナコはわずかに微笑みを浮かべながら、まっすぐにタナベを見つめていた。
「そんな、アタシの方こそ、いつもタナベさんにごちそうしてもらったりしてるから、何かお返ししなくちゃって思ってただけで、だから、この間の事はそんなに気にしなくていいんですけど」
「いや、そんなことは全然ないよ。俺、この間の事でカナコちゃんにすごく感謝してるんだ。風邪ひいた時に誰かに看病してもらうことなんて、ずっとなかったから。だから、何かお礼というか、感謝の気持ちというか、とにかく、何かしなくちゃいけないって思って・・・」
少し興奮したように、タナベは早口に喋った。そして、今度は困ったような顔になって黙った。
「ホントにいいんですか?じゃあ、今度の土曜とかは?」
カナコの明るい声に、下を向いていたタナベは勢いよく顔を上げた。
「土曜?全然大丈夫。じゃあ、いい店探しておくよ」
ドアを開けて店から出て行く間際、タナベは振り返ってカナコに手を振った。カナコも右手を小さく振って応えた。そして、タナベが夜の闇にまぎれて見えなくなると、その右手は急に力を失ったかのようにダラリと垂れ下がった。
土曜日の午後8時ごろ、二人は駅前の広場で待ち合わせてから、タナベが見つけたというレストランまで歩いた。人通りの少ない路地に面したそのレストランは、白と木目を基調にした落ち着いたデザインで、どこか家庭的な雰囲気を漂わせていた。
「こんなところにレストランなんてあったんですね。知らなかった」
「俺も、最近知ったばかり。実は、会社の女の子に教えてもらったんだ。いいレストラン知ってたら教えてって言ったら、ここがいいですよって」
窓ガラス越しの店内には何組かの先客がいたが、空席も幾つかあり、ちょうど良いタイミングに到着したようだった。 タナベが先に立って入り口の木製のドアを開けると、少し抑え気味の照明が落ち着いた雰囲気を店内にも演出していた。少しの間、カナコは入り口付近に立ったままで店内を眺めた。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
愛想の良い中年の女性が声をかけてきた。
「はい。二人です」
少しぎこちなくタナベが返事をして、二人は窓際のテーブル席に案内された。窓の外の通りは人や車もまばらで、店内のゆったりとした時間の流れが邪魔されることもない。向かい合わせに座った二人は、タナベが会社の女子社員に聞いてきたというお勧めのメニューを幾つかと、グラスワインを二人分注文した。
作品名:あなたの命を私にください 第一話 作家名:hamachi