ベイクド・ワールド (上)
第三章 地球の裏側で知らない誰かが死んだとして、その裏側にいる私には変わらない日常が流れる
ようやく、朝を迎える。カーテンの隙間からやわらかな朝の光がさし込む。僕はベッドから起きあがり、部屋を出た。玲の部屋は紺のカーテンがかかったまま、暗闇に包まれていた。僕は黙ってカーテンをめくり、ベッドを見つめた。毛布に包まった塊がベッドの上に見えた。小さな呼吸音が聞こえる。それを確認したあと、シャワールームに行き、冷たいシャワーを浴びた。身体にまとわりついた昨日と今日の汗を念入りに落とす。頭を洗い、顔を洗い、身体を洗い、脚を洗う。上から下へとすべてを洗い流す。シャワールームを出たあと、玄関に行き、ポストに無造作に突っ込まれた新聞を取り出した。僕はぱらぱらとめくり、見出しを確認した。三頁目に、『駿府城跡の中堀で鯉が大量死』という小見出しがあった。
『八月十三日、七時、駿府城跡で犬を散歩中の男性から鯉が大量に死んでいると警察に通報。七時半頃、警察は静岡市環境局に連絡。九時から十一時まで市環境局が現地確認。九時半に市生活環境課が堀から採水し、簡易水質検査を実施。十一時頃、鯉の死骸を数百匹以上確認と正式に連絡。十二時頃、溶存酸素の測定結果が七・九ミリグラムと判明。十三時半には水質検査の結果が異状なしと報告。十四時半頃、県水産技術研究所に鯉の死因調査を委託。十五時半頃、水質汚濁防止法による特定事業場への聞き取り・調査を実施。十七時半、鯉の死骸の回収作業一次終了』
一連の流れが示されているだけだった。水質の簡易検査では問題は見られないが、詳細な検査が必要である、とそこには書かれていた。昨日の作業員が言っていたとおり、コイヘルペスウイルスの可能性は低いと考えられるが、新種のウイルスの可能性も考えられるとみて、三重県の大学も検査に協力すると書かれていた。
僕は新聞を閉じて、リビングのテーブルの上に放り投げた。椅子に座り、テレビをつけた。地方のニュース番組をつける。しばらくすると、鯉の大量死についてのニュースがあった。内容は新聞に書かれた内容とまったく同じだった。僕は冷蔵庫からミルクを取り出し、コーンフレークにかけて、ニュースを見ながら朝食にした。しばらく時間をつぶしたあと、制服に着替えて家を出た。
今日は列車のなかで眠りに落ちることはなく、静岡駅に到着した。改札を抜け、北口のロータリーに出ると、葵タワー前の呉服町通りで人だかりができているのが見えた。僕は地下道を抜けて、通勤や通学の人たちを避けながら進み、呉服町通りに出た。そこにはパトカーが止まり、警察が何かを調べていた。付近を見渡すと、その通りにあるマンホールがすべて――僕が見る限り、すべてということだが――無くなっていた。ぽっかりと黒い口を開けていたのだ。乗用車の右の前輪がそのうちの一つのマンホールの穴にすっぽりとはまってしまっていた。穴の開いたマンホールの周囲にはカラーコーンがたてられ、棒で囲まれていた。僕は呉服町通りを北へと進みながら、道路のマンホールを眺めた。葵タワーを抜け、静岡パルコを抜け、居酒屋が立ち並ぶ地帯を抜け、商店街を抜けていった。そして、役所前まで出た。
まさに、そこにあるマンホールはすべてなくなっていた。さらに前進し、伊勢丹を抜け、本通りにぶつかった。呉服町通りはそこでお終いなのだが、マンホールの消失もそこでなくなっていた。本通りのマンホールはあるべき場所にきちんとあった。呉服町通りにおかれたマンホールはざっと数えたところ、三十個以上あったと思う。それが跡形もなく消えていたのだ。昨日の鯉の大量死といい、マンホールの大消失といい、奇妙な出来事が起きている。いったい誰がマンホールを外したのだ。これほど大量のマンホールを外すには一人では無理だろう。何人かのグループがやったということか。だとしても、何のために。馬鹿馬鹿しい。マンホールの蓋を開けたところで、腹の足しにもならないし、金にもならない。いや、金属としての価値はあるのだろうか。だとしても、何も人通りの多い場所でマンホールを奪う必要はないじゃないか。もっと人気のない場所を狙えばいい。ただ、こんな広い通りでは防犯カメラもあるだろうし、犯人が見つかるのも時間の問題だろう。
僕はマンホールを見るのを止め、駿府城跡の中堀に向かった。昨日と同じ場所に、同じボートが浮いていて、作業員が何人か昨日と同様の方法で鯉を回収していた。昨日、コイヘルペスウイルスについて語っていた男を探したが見当たらなかった。鯉はいまだに何百匹も浮いていた。昨日のニュースを見て、学生やサラリーマンが興味深げに堀の中を覗いていた。呉服町にも行ってみればいい。もっと興味深いことが起きている。しばらくしてから、僕は近くのバス停に向かい、学校へと向かうバスに乗車した。
窓際の日射しのいい場所が僕の席だ。冬はいいが夏はさすがにきつい。けれど、風景を眺めるのは好きだからカーテンはいつも開けたままだ。ただ、カーテンから見える景色はたいしたことないのだが。隣に立っている体育館の屋根しか見えないのだ。朱色をしたトタン屋根。つまらない屋根だ。ところどころ禿げていて、今にも壊れそうだ。僕はそんな光景をただなんとなく眺めていた。
教室に担任のカシマが入ってきた。頭には白髪が多く、銀色の髪に見える。くせ毛なのでなんとなく不潔にも見える。銀色の淵のない眼鏡をかけていて、そこには神経質な性格が見てとれる。カシマは僕のところに黙ってやってくる。
「昨日の補習はどうしたんだ? 何も連絡がなかったが」とカシマは言った。怒っている様子ではなく、業務だから聴いているというような口調だ。
「昨日、電車に乗っていたら、急に体調が悪くなってしまって、家にそのまま帰ってしまいました。連絡をすればよかったんですが、あまりに気持ち悪くて。すみませんでした」と僕は嘘をついた。眠ることのできない僕が列車のなかで眠りに落ちてしまい、ひどく混乱し、変わった女の子のいる古書店に行くとその女の子が現れて、さらに混乱し……。などとは言えるはずがなかった。
「そうか。体調はもう大丈夫か?」
「見ての通りです」
「でも、休むときは、ちゃんと連絡を入れるんだぞ」
「はい。すみません」僕は頭を下げた。
カシマは僕の元を去り、教卓に向かい、出席を取った。出席を取り終えると、カシマはそそくさと教室を出て行った。
後ろの席から僕の肩が叩かれる。僕は振り返った。
「体調不良なんて嘘だろ?」と久藤研太が言った。
「まあね」と僕は答えた。
「サボり?」
「確かにサボタージュはしたけど、そこら辺の程度の低いサボりではない」
「何それ? 意味わかんね。で、何してた? 遊んでたのかよ」
「鯉の死骸を見に行ってたんだ」と僕は言った、それだけではないが。
「ああ。昨日、堀であったよな。ニュースで見たぜ。結局、まだ原因は分かんないだってなあ。でも、そんなの見て何が楽しいんだよ」
「鯉は殺された」と僕は作業員の言葉を借りた。
「誰に?」久藤は不思議そうな顔をした。
「誰かに」
「は? 意味わかんねえよ。ウイルスとかだったら怖いけどなあ。それが人にも感染して、ほら、鳥インフルエンザみたいにさ。やばいだろ?」
僕は黙って頷いた。
「それに今日。駅前見たか?」と久藤が言った。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義