ベイクド・ワールド (上)
「食欲がないっていっても、ゼロってわけじゃないだろう。全部を食べれないにしても、一口でも食べなきゃいけないよ。余ったら、僕が食べてあげるから」
「……置いて」と玲は言った。テーブルに置いてということだ。ベッドの隣にあるベッドサイドテーブルに僕はクリームシチューとスプーンを置く。けれども、そのまま玲は手を出さない。
「食べなよ。うまいよ」と僕は言った。「いや、ごめん。今、僕は嘘をついた。不味いけれど、食べられないことはない」と付け加えた。
「亜季の方が失礼だ」と玲は糾弾した。
「じゃあ、これで君とはおあいこだ。だから、食べな」僕はスプーンを玲の前に差し出した。玲はそれをしぶしぶ受け取る、とても細い腕で。そして、震える手でクリームシチューをすくい取り、口のなかに運んでいく。少しだけシチューがベッドの上にこぼれる。僕は持ってきたタオルでそれをふき取る。玲はたった一口のシチューを少しずつ少しずつ飲み込む。そうでなければ、食べられないからだ。彼女の身体がそれを拒否する。
「どう、うまい?」
「うーん」と玲は言った。「不味いけれど、食べられないことはない」
「失礼だ」と僕は言って玲の頭をこつんと叩いた。
玲はゆっくりとクリームシチューを食べた。だいたい、半分くらいは食べることができた。僕はその様子を近くの椅子に座って、見ていた。
そして、それははじまる。
「きもちわるい」と玲が言う。彼女の胃から、不味いけれど食べれないことはないクリームシチューがせりあがってくるのだ。今の彼女にはエネルギー源となる食物が異物として認識される。生きるための物質が異物として認識されるなんてどういうことだ、と僕はいつも思う。それは、玲に死んでしまえといっていることに等しい。彼女に吐き気をもたらす根源に僕は怒りを覚えた。
僕はベッドに腰を下ろして、彼女の背中を優しくさすってあげる。背骨が浮き上がって、痩せた彼女の背中を優しくさする。大丈夫、大丈夫、それは異物なんかじゃない、と心のなかで言いながら。彼女は頭を僕の胸に凭れかけて、ぜいぜいと呼吸をする。僕は今まで何度もこれを続けて、彼女が吐いてしまわない背中のさすり方を心得ていた。ただ、優しくさするだけではいけないのだ。それでは吐いてしまう。優しさのなかにちょっとした無関心を混ぜ込む。『僕は少しだけ君のことをどうでもいいと思っている』という気持ちを混ぜ込むのだ。そうすることで彼女のプレッシャーを減らしてあげることができる。優しさだけだと、これだけ優しくされているのだから、吐いてはいけない、と思ってしまう。それが重荷になって結局吐いてしまう。だから、ちょっとした無関心だ。僕は背中をさすりながら、こう言う。『吐きたいなら、とっとと吐いちまいなよ。気持ち悪ければ、吐けばいい。君が食べたのは、不味いけど食べられないことがないシチューじゃなくて、不味いから食べられないシチューだったんだ。ただ、それだけのことだったんだ』、と。そうすると、プレッシャーが減る。もちろん、これまでにこれを実践しても彼女が吐いてしまったこともあったけれど、吐かない場合の方が圧倒的に多かったのだ。
そして、今日は吐かなかった。
でも、僕にとって辛いのはこのあとだ。
「もう、やだ。もう、辛い」
「何言ってんだよ。弱虫だな」と僕は背中をさすりながら言った。
「どけて」と玲が言った。「もう邪魔だから手をどけて」
「そんなの失礼だぞ。間違ってる」と僕は言ってから、手をどける。
「そんなの知ってる。失礼だと分かってやってるんだもん。間違ってると思ってやってるんだもん」
「じゃあ、そんなこと言うなよ」
「結局、亜季は偽善者なんだ。偽善で私に優しくしているんだ。本当は私のことをどうでもいいと思ってる。でも、人から良い人間に見られたいから、悪い人間に見られたくないから、私に優しくするんだ」
僕のちょっとした無関心に玲は気がついている。でも、その意味を間違えている。
「偽善で何が悪い? 偽善の優しさだって優しさの一部だろう」と僕は反論した。
「そんなの優しさなんかじゃない。もう私に触らないで」
「やだよ。触るよ」と言って、僕は彼女の頭をなでた。
彼女は僕の手を振りはらう。
「触らないで。嘘つきの手で」
「だから、やだ、って言ってんだろう」また、なでる。
玲は僕の手を振り払い、ベッドサイドテーブルに置いてあるシチューを手に取り、それを僕にめがけて投げつけた。皿は僕の腹部に当たり、そして床に落ちた。シチューが僕のTシャツとハーフパンツにかかった。もう冷めてしまったシチューだ。冷たい感触が僕の腹と脚をおそう。そして玲は毛布に身をくるんだ。僕は床に落ちた皿をとり、テーブルに置いたあと、タオルでカーペットにべっとりとくっついたシチューをふきとった。シチューの匂いが充満した部屋にはひどい沈黙が流れている。彼女は毛布にくるまりながら、身体を震わせている。泣いているんだ。つまり、彼女は分かっているんだ。こんなことをしたくて、しているわけじゃないってこと。そんなこと、分かっているんだ。当たり前だ。だから、ここで彼女を怒れるわけないだろう。僕はただ黙って、シチューのついたカーペットを拭くしかないんだ。それだけしかできない。
けれど、僕には我慢できない言葉というものもあった。それはどうしようもないことだ。いつもそうだ。このあとに続く彼女の言葉を僕は許すことができない。それはどうしようもないことなのだ。
「お兄ちゃんに会いたい」と毛布が呟く。僕はタオルを拭く手を止める。「お兄ちゃんに会いたい」ともう一度言う。「お兄ちゃんは完璧だった。お兄ちゃんは本当に優しかった。その代わりなんて誰にもできない」と毛布が言った。
気がつけば、僕は毛布を剥ぎ取って、毛布のなかに隠れていた頬に平手打ちをしていた。
「あいつはそんな完璧な存在じゃなかった。そんな優しい人間でもなかった。それに僕はあいつの代わりになろうとも思っていない。僕は僕だし、あいつはあいつなんだ」と僕は怒鳴った。それからそのまま部屋を出たが、一度部屋に戻って、皿とタオルをもち、それからケーキをベッドサイドテーブルに置いて、キッチンに向かった。皿を手に取ったとき、彼女の目には大粒の涙がたまり、唇が歪んでいたのが分かった。けれど、僕は駄目だった。あいつのことを出されると、僕はほんとうに駄目だった。それはどうしようもないことだった。
皿を片づけたあと、僕は自分の部屋に行き、新しい服に着替えた。そしてシャワーを浴びずにベッドのなかに入り込んだ。そして今日もいつもと同じように眠れない夜がやってくる。眠りという概念を失った僕にとって、それはとても長い夜だ。だいぶ前に、涼子が飲んでいる睡眠薬やら精神安定剤を黙って拝借して飲んだことがあったけれど、まるっきり効果はなかった。
僕は目を閉じた。けれど、眠りはやってこない。僕の鼻のなかにはクリームシチューの匂いがこびりつき、僕の耳には隣の部屋からむせび泣く小さな毛布の声が聞こえるだけだ。とりあえず、僕は目をつむり、耳を塞いで、長い夜へと溶けていった。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義