ベイクド・ワールド (上)
「ふうむ。面白い推測だなあ。でもなあ、鯉なんかにそんな殺意を抱いていったいどうなるんだ?」
「殺意といっても恨みとか憎しみとかじゃなくて、殺意そのものというか。何と言えばいいのか分かりませんが、その何者かにとっては殺すこと自体が目的のようなものなんです。純粋な殺意と言うんですかね」
「俺にはよくわからねえなあ」
「すみません。馬鹿なことを喋ってしまって。僕はSFとかファンタジーが好きで、変な妄想をしてしまうんです、こういう不思議なことが起きると」
「まあ、妄想は別にかまわないけどよお。で、鯉の回収は今日中には終わるのかね。なかなか多いけれど」男は堀に浮かぶ鯉の大群を見つめた。
「多分、明日にまわされると思います。出来る限りは今日中に回収しますが。なかなか、この量だと大変ですね」
「まあ、しばらくして検査とか何やらが進んだら、いろいろと分かってくるのかねえ」
「そうですね。明らかになってくると思います」
「つまり、自殺か、他殺かどっちかが分かるってわけだ」と男は言って笑った。
作業員もつられて笑った。
「じゃあ、いろいろと話ができてよかったよ。作業、頑張ってくれ」と男は言って、手を振り、去っていった。
作業員は会釈したあと、大きな網をもち、鯉の回収作業に戻った。
僕は手すりに手を置いたまま、しばらくその作業を眺めていた。大きな網で鯉をすくい、ボートに積まれた大きな袋に入れていく。袋が満杯になると、路肩に止められた車から垂らされたロープに繋ぎ、上に引き上げられる。そしてまた新たな袋に詰めていく。この単純な作業の繰り返しだ。けれど、鯉の死骸が減っていくようにはみえなかった。そこには概算できないが、数百匹以上の死骸は浮いているはずだ。これほどの鯉がここにはいたのかと不思議に思うくらいだ。しかも、なぜこの場所に集中しているのだろう。確かに奇妙だ。多くの鯉が白い腹を見せながら浮いていた。自殺か、他殺か、と男は言っていた。いったい彼らはどのようにして殺されたのか。僕は少しだけ気になった。
気がついたときには日が暮れはじめていた。僕は静岡駅に向かった。列車のなかで眠らないようにと願いながら、僕は藤枝駅に向かう列車に乗った。
自宅に着いた時には八時近くになっていた。僕の自宅は駅から少し離れた郊外のマンションだ。玄関をあけると、目の前にエプロンをかけた涼子が廊下を箒で掃いていた。涼子というのは僕の母だ。僕は母のことを涼子と名前で呼んでいる。父親も克也と名前で呼んでいるし、妹は当然だが玲と呼び捨てにしている。玲も僕のことを亜季と呼び捨てにする。他の家族はどうなのかは知らないけれど、僕ら家族にとってお互いに呼び捨てにするのは当たり前のことだった。それが普通だった。いつからそうなったのかは覚えていないが、気がついたらそうなっていたのだ。
涼子はこちらを向き、おかえり、と言った。ひどく無気力な声だ。薬を飲んだせいだろう、と僕は思った。鼈甲眼鏡の奥に覗く細い眼には覇気をまったく感じない。やや白髪が混じったぱさぱさした髪を後ろで結っていて、丸く大きな鼻。薄い唇。
「亜季、ご飯、すぐに食べる?」と涼子は訊いた。
「ああ、食べるよ。荷物を部屋に置いて、着替えたら行く」
「分かった」と涼子は言い、奥の部屋に消えて行った。
僕は自分の部屋に入った。四畳半の狭い部屋。小型の簡易ベッドがあり、その隣にパソコンデスクがある。部屋の隅には小型テレビがあり、壁には本棚がある。本棚にはいくつかの本が敷き詰められていて、そのなかには古書店で買った本も混じっていた。本棚の隣には五枚の羽根のうち一枚の羽根が欠けた扇風機がある。回すと、がたがたとうるさいので弱で我慢しなければならない。僕はワイシャツとスラックスを脱ぎ、新しいTシャツとハーフパンツに着替えた。それから、食卓に向かった。
「克也は今日遅いの?」僕はクリームシチューを食べながら、涼子に訊いた。
「編集作業で忙しいみたいだから、今日は出版社に泊まるって」
「ふうん」と僕はスプーンを噛みながら言った。「今日は玲の誕生日なのにね。まあ、そんなのを祝うような年でもないんだけど。玲はあいかわらず部屋から出て来ない?」
「うん。ケーキは買ってきたんだけれどね、部屋から出てくれないよ」
「そっか。まあ誕生日だからって関係ないよな。玲、ご飯はもう食べたの?」
「まだだよ。だから、あんた食べ終わったらさ、玲のところにクリームシチューとケーキ持って行ってあげて」
「ああ」と僕は言った。「で、そっちはどう? 落ち着いてる?」
「見ての通り、あいかわらずだよ。私も玲も一緒だよ。玲は私に似て、心が図太いように見えて、ほんとうのところ、弱いからね」
「もう、忘れちまえよ、あんなこと。考えてもさ、どうしようもないんだから。考えてなんとかなるんなら、誰でも馬鹿みたいに考え続けるよ。考えても駄目なもんは、忘れればいいんだ」
「あんたは強いねえ。いやそれとも冷たいのかしら。でもまあ、それくらいの方が生きていくのにはきっと楽だよ。父さんだってそうだ。父さんもあの日のあとも、ちっとも変わってないからね。羨ましい限りだよ。ただ、分かっていることは玲を助けられるのはあんただけということ。母さんにも父さんにもきっと無理。だから頼むよ。私にはまだ人を助けられるほど、力は回復してないんだ。悪いけれど」
「今は人のことは考えなくていいさ。今はしょうがないだけだ。だから、とりあえず自分のことだけに専念するんだね。それは間違ったことじゃない。正しいことだから」
「生意気だね」と涼子は言って、笑った。
「まあね、僕は冷たいから」僕はそう言ってから、クリームシチューの最後の一口を食べた。
僕の部屋の向かい側に玲の部屋がある。そして、その部屋には扉がない。玲が内側から鍵をかけて、出てこなくなった時があったから、僕がその扉を蹴りやぶったのだ。今はそこには紺色の長いカーテンが掛けられているだけだ。そこにあった扉は僕の部屋の押し入れのなかにしまってある。僕はカーテンを抜けて部屋に入った。電気はついていない。そこには光と呼べるべきものが一切ない。部屋のカーテンはすべて閉じられている。隙間にはガムテープが貼られている。部屋の一番奥にあるベッドに毛布をすっぽりと被り、丸まっている玲がいる。
「玲、顔を出して」と僕は言った。「今日は君のバースデーだろう」
毛布がもぞもぞと動く。僕はその動きに言葉を重ねることができる。つまり、うるさい、ということだ。
「今日は君が生まれた記念すべき日なんだぞ。すばらしきこの世界に飛び出た日なんだ。おぎゃあ、って」と僕は大袈裟に言った。
「……うるさい」と毛布が声を出した。
「ほら、顔を出せよ」と毛布ごしに頭をつつく。
「うるさい」
もう一度、つつく。
「うるさい」と言って、毛布から顔が出てくる。髪は前髪で眼が隠れてしまうくらいの長さ。虚ろな瞳、上に尖がった鼻、口角の下がった唇は涼子とそっくりだ。
「おはよう、お姫様。クリームシチューがあるんだ。食べるだろ?」
「いらない」
「いらないってことはないだろう。だって、これは涼子が君のためにつくったんだから。そんなの失礼だぞ」
「食欲がないの」
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義