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ベイクド・ワールド (上)

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 一人になった僕は店内を何を思うでもなくぼんやりと眺めた。壁には古いLPレコードが飾られており、どれもがブラックミュージックだった。レコードが飾られている壁のすぐ隣にはコルク製ボードが貼り付けられていてチラシが無造作に鋲で止められていた。見ると、それはライブハウスのライブ広告だった。
 この葵区にはいくつかのライブハウスが散在している。チラシを眺めていると『Sunash』という文字を見つけた。Sunashは伝馬町にある小さなライブハウスだ。このライブハウスでは学生バンドが演奏することが多い。僕の後ろの席にいる久藤和希は軽音部に所属していて、よくSunashでライブをしていた。僕は一度だけ、久藤のバンドを見に行ったことがあった。そのバンドは『ブルカニロ』という名前で和希はドラムを叩いていた。ブルカニロは地元のバンドのコンクールで何度が入賞していて、その演奏レベルは高く、驚いた記憶がある。掲示に張られたチラシにも『ブルカニロ』の名前はあった。他のバンドはPiece Of Color、ホームランズ、LOCAL GOD、DuskyHarlot、SLUMS DRUMS、THE WEMMERと書かれていた。きっとどれも地元バンドだろう。
 沙希がお手洗いから帰ってくるのとほとんど同時に、女性店員がアメリカンコーヒーとホットケーキを席に持ってきた。

「街に行きたいなんて、急にどうしたの?」と僕は沙希に訊いた。
 沙希はカップを両手で包み込みながら、珈琲を一口飲んだ。それから口をあけた。「話をしたいと思ったの、アルビナと」
「それはいったいどんな話?」
「思えば、私ってアルビナのこと何にも知らないってことに気づいたの。アルビナがどこに住んでいるとか、アルビナにはどんな家族がいるのか、とか。つまり、そういうことについて」
 沙希も僕とまったく同じことを考えていたのだ。
「僕もまったく同じことを考えていた」
「え?」沙希は少し驚いた顔をした。「私について、知りたいって、そう思ったの?」
「君はとても謎に満ちているからね。君について、もっと知りたいって思った」
 沙希は小さく笑った。「何でも聞いていいわよ。私について何が知りたいの?」
 何を知りたいのか、と言われると急に何を聞けばいいのかわからなくなってしまう。沙希には聞くべきことがたくさんありすぎるからだ。しばらく考えたあと、僕は質問した。
「君には家族がいるの?」
 沙希は笑った。「もちろん、いるわよ。アルビナだっているでしょ?」
「ああ」と僕は言った。「じゃあ、君には兄弟はいるのかな?」
「いいえ、兄弟はいないわ。私は一人っ子なの。父親が高校の教師で、母親が中学校の教師。教師の両親のもとに生まれたたった一人の娘」
「君の親はどんな人なんだい?」
「父親はこの世の事象はすべて論理的に片付けられると盲信している人で、母親はたまにヒステリーを起こすけれど基本的にはまともな人」
「なかなか面白い批評だね」僕は笑った。
「アルビナの両親はどんな人? 兄弟はいるの?」
「父親は寡黙で普段は何を考えているか分からないけど、いざとなれば頼れる人で、母親は図太いようにみえて実は心が弱い人。まあ、そんなところかな。兄弟は妹が一人いる」僕は徹については話さなかった。話しても仕方がないし、そもそも話すべきではないと思った。
「妹がいるのね?」
「ああ、可愛い妹だよ」と僕は言った。「でも、君と同じで彼女も不登校だ。学校には行っていない」
「どうして?」
「まあ、それは彼女には彼女なりの問題を抱えているからだ。悪いけれど、あまり他の人には話したくないんだ」
「そうね」
「ところで、君はいったいどうして不登校なの?」
「私は、不登校って言葉は好かないの」沙希は少し顔を険しくした。「私は私自身の意志で学校に行っていないの」
「その意志とは、いったいどんなもの?」
「つまり、私には教育は不要だということ。私に必要なものは他にあるの」
「それはいったい何?」
「悪いけれど、あまり他の人には話したくない」と沙希は僕のさきほどの言葉を真似した。
「そうか」と僕は答えた。当然だ。誰にでも話したくないことは一つや二つあるものだ。僕が徹の存在を隠していることと同じだ。これ以上、聞くのは野暮というものだ。
 ふいに、僕のiPhoneが鳴った。画面を見ると『深瀬玲』とあった。僕は沙希の顔を見た。
「出ていいよ」と沙希は言った。

「もしもし。玲か。どうした?」
「亜季。ちょっと話したいことがあって」くぐもった声が聞こえる。
「ん、何? 話したいことって」
「えっと。お願いがあるの」玲はそう言って言葉をつまらせた。「亜季に手伝って欲しくて」
「ああ、何でも言いなよ。何でも手伝うよ、君のためなら」
「私、こんな状態から早く抜け出したいの」と玲は涙ぐみながら言った。
「ああ」と僕は言って、続く彼女の言葉を待った。
「抜け出させて欲しいの」玲はもう一度、言葉をつまらせる。「今度……外に出たいと思って……私と一緒についてってくれる?」
 僕は驚いた。彼女が外へと出たいと言っているのだ。徹が死んでから、一歩も外に出ていない彼女が。そんな彼女が自分から外へ出たいと言っているのだ。僕は目頭に熱くなるものを感じた。マトリョーシカのように閉じられた心が一つずつ一つずつ開かれていく音が僕の頭のなかで聞こえた。
「ああ、もちろん。一緒に行くよ」と僕は言った。
「ありがとう」
「いつがいい?」
「まだ、いつかは決めてないけれど。亜季がいいときに行きたい」
「うん、わかったよ。また今度じっくりと話そう」
「うん」
 僕は玲からの電話を切った。僕は心が震えていた。僕のいいと思う方法で、玲に接して、彼女の閉じられた心をやっと開けることができたから。僕自身の考えが間違っていなかったのだ。僕は、認められた気がした。それは、とても嬉しいことだった。

「嬉しそうね」と沙希は僕をみながら言った。
 僕は笑った。「ああ、とても嬉しいことが起きたんだ」と僕は言った。
「そんな嬉しそうなアルビナを見てると、私もなんだか嬉しい」と沙希は言った。
 そのあと、僕たちは冷めてしまったホットケーキとアメリカンコーヒーをゆっくりと平らげながら、何気ない話をして珈琲ショップを去った。

 その日、僕は例のごとく、自分の席に座り、窓から体育館の赤茶色のトタン屋根を眺めていた。女教師はDNAの二重らせん構造について熱心に語っていた。DNAの二重らせん構造を発見したワトソンとクリックは、ロザリンド・フランクリンという女性科学者が撮影したDNAのX線回折写真を盗み見て、論文を書いたのだ、だからこそ、この二人は科学界の罪深いコンビなのだ、と力説していた。女教師の論調からは男に対する憎しみのようなものを感じた。僕はそんなことはどうでもいい、と思いながら、外を眺めていた。
 ようやく、補習が終わったとき、背中を叩かれた。久藤だろう。僕は後ろを振り返った。
 久藤がにんまりと笑っていた。僕は嫌な予感がした。
「今日、軽音部に来てくれないか? ギターの奴が風邪で休んじまって、練習ができないんだよ」久藤はぴたりと手を合わせた。それから「頼む! 手伝ってくれ」と言った。