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ベイクド・ワールド (上)

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「ただ」と沙希は呟いた。「私の手から離れてしまった物語はこれからどのような物語を綴っていくのか分からない」
「でも」と僕は言った。「まだ、何か大きな出来事が引き起こされたというわけじゃない。今のところ、シンセカイが焼かれ、沙希が『軸』としての概念を失い、代わりに『ベイクド・ワールド』という新しい世界に移行したというだけさ。とりあえず、様子を見ることしか、今の僕たちにはできそうにない」
「ごめんなさい」と沙希はうつむきながら言った。沙希が謝るのははじめてだったと思う。その姿は涙を流して謝る玲の姿と重なった。僕は沙希が泣く姿なんて見たくなかった。きっと玲と同じで、そんな姿をみれば、とても悲しい気持ちになるだろうから。僕は沙希の肩に手を置いた。
「沙希が気にすることじゃないよ。僕や河中さんはずっと君の味方だから」僕はそう言ってからゲバルトをみた。
「ああ。俺たちは君の味方だよ」とゲバルトは言った。
「ありがとう」と言って、沙希は小さく頷いてからこちらを見た。そのとき、僕はあることに気がついたのだ。沙希の瞳にいつも宿る冬の寒空がまったく消えてしまっていることに。

 象蟲が再生する日である八月二十日を過ぎたが、あれから特に大きな出来事は起こっていない。まさに平穏といっても過言ではない日常を僕は過ごしていた。
 世間は、駿府城跡の中堀で鯉が大量死したことも忘れてしまっているようだった。まるで、もともと中堀には鯉はいなかったとでもいうかのように、人々は一切気にしなかった。水質検査の調査報告もその後、一切聞くことがなかった。はたまた、新種のコイヘルペスウイルスの調査報告についても。
 マンホールの消失も、もはや交換された新しいマンホールは見事に薄汚れ、昔からあったマンホールと同等品のようにみえた。そもそも人々はマンホールなど見ないのだ。だからそれが新しいマンホールかどうかなんて誰も気がつかない。監視カメラの改ざんを疑っていた警察からのその後の調査報告も一切なかった。警察は解決できない難題を頭に抱えると、すぐにそれをうやむやにするのだ。
 空から降りそそいだオタマジャクシもそうだ。この原因も、専門家たちが述べていたオタマジャクシを口に含んだ鳥類が吐き出した、あるいは、小さな竜巻によって巻き上げられ落ちて来た、という考察が見事に採用され、結論がついた。マスコミも最初は面白おかしくこの現象について取り上げていたが、人々がその興味をなくしたことを察知すると、それ以上の記事を書くことはなかった。
 消えない雲とともに、空に鳴り響いた世界終焉の音については、そもそもマスコミは一切取り上げなかった。誰もが何かの聞き間違いか、あるいは工事現場かなんかの音だろうと思ったのだ。一部のオカルトマニアが、これはアポカリプティックサウンドだ、と騒ぎ立て、YouTubeに動画をアップしていたが、誰もがこんなものは捏造だ、と批判した。アポカリプティックサウンドをネットで検索すると様々なウェブ記事が見つかるが、その全てが胡散くさかった。
 けれども、僕の尻には『Альбина』と書かれたままだったし、ゲバルトの腕には『насилие』と書かれたままだった。僕らは呪いを受けたまま、何もできずにいたというわけだ。けれども、何も起きていないのなら、そもそも何もする必要はない。『ベイクド・ワールド』はまさに平和な世界だった。しんぼるを壊して、べっとりとした血で服を汚さずにすむし、突然、後頭部を木の棒で殴られる心配もないのだ。

 僕は青葉シンボルロードのマクドナルド前で沙希を待っていた。沙希が突然「街に行きたい」と言ったからだ。しんぼるを破壊し終え――第四しんぼるについては不明だが――何もない日々を送らなければならない僕たちは退屈だった。そんな退屈を紛らわすために沙希は僕に「街に行きたい」と言ったのだろう。今まで僕と沙希はしんぼるの破壊のためだけに一緒にいることしかなかった。彫刻やら、銅像やら、はたまた映画館の席やら、そんなものを壊すためだけに一緒にいたのだ。ただ、今回は違う。ただ、二人で街に行くだけなのだ。今日は彼女について深く知ることのできるいい機会だ、と僕は思った。思えば、僕は彼女のことをまったく知らなかった。たとえば、彼女がどこに住んでいて、どのような家族と暮らし、はたまたなぜ学校に行かず不登校なのかなど、挙げればきりがないほどに、彼女は謎に満ちていた。

「お待たせ」という声が横から聞こえた。沙希が来たのだ。僕は声のした方に目をやった。僕はまず彼女の服装に驚かずにはいられなかった。ホワイトのフレアキャミソールに黒のシフォンスカート。ピンクのミュールを履いていた。キャミソールからは白くきめ細かい肌がのぞいた。スカートは短めで、しなやかに細く伸びる脚が露わになっていた。彼女のこんな恰好をみるのは初めてだ。彼女の服といえば、黒いブレザー制服というイメージだけだった。
「今日は服装がいつもとはちがうね」僕は率直な感想を言った。
「そうかな?」と沙希はとぼけた顔をした。それから「最近、コスプレには飽きてきたところなの」と付け足した。
「似合ってると思うよ。今の服装」
「ありがとう」と沙希は笑った。あの日を過ぎたあと、彼女は今までよりも笑顔をみせるようになった気がする。それは、僕にとって少しだけ違和感のように感じたけれど、彼女の笑顔はとてもチャーミングだった。彼女の笑顔をみるとこちらも顔をほころばせてしまう。それくらいに彼女はチャーミングな笑顔をしていた。
「街に行きたいって、いったいどこに行きたいの?」と僕は訊いた。
 沙希は少しうつむき、頬に手をあてて考えた。そのとき、彼女の小ぶりの胸がキャミソールの隙間からのぞいた。僕は一瞬、どきりとした。視線のやり場にほとほと困ってしまう。
 沙希は、ぽんと手を叩いて「喫茶店に行きたい」と言った。
 僕はこの近くにある珈琲ショップについて頭のなかで思いめぐらせた。それから、一つの店が思いつく。
「確か、Green Hillっていう喫茶店が近くにあったはずだ」と僕は言った。
「じゃあ、そこに行きましょう」
 僕たちはGreen Hillへと向かった。

 Green Hillに入ると、入口に近い席には白髪交じりの初老の男が座り、新聞を読んでいるのが目に入った。その男は時折、舌打ちをしたが、それには意味はなく、癖のようだった。僕と沙希はその男から離れた店の奥側の席に腰を下ろした。店員が見当たらなかったが、しばらくするとトレーにコーヒーを乗せた三十代近くの女性が奥から現れた。男の注文したものをもってきたのだろう。店員は僕たちの存在にも気がつき、会釈した。
 男のコーヒーを差し出したあと、すぐに僕たちの席に来て、「ご注文はお決まりですか?」と訊いた。
「何を注文する?」と僕は沙希に訊いた。
「何でもいい。アルビナと一緒でいい」と沙希は言った。沙希が僕のことをアルビナと呼んだことに、店員が一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに普通の顔に戻った。
「じゃあ、アメリカンコーヒーとホットケーキを二人分」と僕は言った。
 店員はキッチンに消えた。
「ちょっとお手洗いに行ってくる」と沙希は言って、席を立った。僕は頷いた。