ベイクド・ワールド (上)
思ったとおり、悪い予感は的中したわけだ。ただ、これから特に用事はなかったし、仕方がない。僕は手伝うことにした。「少しだけならいいよ」
「深瀬! ありがとう!」久藤は言って、僕に抱き着いた。僕はそれを静かに振り払った。いつものことだ。
軽音部の部室はとても狭かった。その狭い部屋のなかで機材はところどころに散らばっていた。VOXのギターアンプが三台、Hartkeのベースアンプが二台、YAMAHAのドラムが部屋の隅に居座っていた。アンプ特有の独特な匂いが部屋を充満していた。部屋には風邪で休んでいるギターの古谷和希以外の『ブルカニロ』メンバーがいた。ボーカルの曽根未紗とベースの吉川小夜子。
「おお、来てくれたんだ、亜季!」と未紗が僕に声をかけた。未紗はいかにもバンドを組んでいる女の子というようなボーイッシュな印象で、ショートカットヘアがよく似合う。
「ああ」と僕は答えた。「ただ、少しだけだぜ」
「全然、構わないよ! 和希がいなくて困ってたところだったからさあ」あいかわらず、元気だな、と僕は思う。
「亜季君、ありがと」と小夜子が言った。小夜子は、未紗とはまったく正反対で、艶やかな長い黒髪で、おとなしい印象を受ける女の子だった。
「いいよ、構わないって」と僕は言った。「で、何の曲の練習をするの?」
「今日はコピーだよ。深瀬も弾ける曲だから心配すんなって」と久藤が言った。「Nivanaの “you know you’re right” だよ」
美紗はマイクスタンドの前に立ち、久藤はドラムベンチに座った。小夜子はフェンダー・ジャズベースを肩から下げ、Hartkeのベースアンプにコードを繋いだ。僕は和希のギターを借りた。ギブソン・レスポール・スタジオだ。艶やかな濃赤色をしたそのギターはところどころ塗装が剥げていて、トーン調節用のツマミが一個とれていた。
そのようにして、僕たちは、Nivanaの “you know you’re right” の演奏をはじめた。
クリーントーンの静かなギターリフから始まる。
ベースが心臓の鼓動のような一定のリズムを刻みだす。
瞬間、ディスト―ションで音を捻じ曲げたギターが響き渡る。
歪んだフィードバックノイズは空間を歪ませる。
絶望的な歌詞を、絶望的なメロディに乗せて、歌い、叫ぶ。
そして、静かに、破滅的に、音は鳴りやんでいく。
僕がギターを弾けるのも、Nirvanaを聴くのも、すべて徹の影響だった。僕は曲を演奏しながら、そう思っていた。徹はこの曲が好きだったのだ。徹はNirvanaの一番の名曲は “Smells Like Teen Spirit” でもなく “Come As You Are” でもなく、 “you know you’re right” だと言った。
“you know you’re right” は、Nirvanaのボーカル、カート・コバーンが生前、最後にレコーディングした曲として有名だ。カート・コバーンは1994年、27歳のとき、自宅にてショットガンで頭を撃ちぬき、自殺した。この曲はまるで自らが死へと向かうことを自覚しているような歌詞だった。
カート・コバーンは絶望的に歪んだ声で歌う。『俺のなかの黒い感情はもう膨らむことはない』 『俺はこの世界から離れるよ』 『そうだな、お前が正しかったよ』 『俺に残ったのは痛みだけだ』
『カート・コバーン』という男と、『深瀬徹』という男のイメージは、僕のなかでぴったりと重なってしまう。この曲を聴くといつも胸が苦しくなる。歌詞が僕の胸へと鋭く突き刺さるのだ。きっと、徹なら僕に対して、こう言うだろう。『そうだな、お前が正しかったよ “you know you’re right”』、と。僕は “you know you’re right” を演奏し終えると、レスポールを肩から下ろし、「じゃあ、今日はこれでな」と言って、部室をあとにした。
【ベイクド・ワールド(下)につづく】 http://novelist.jp/71827.html
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義