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ベイクド・ワールド (上)

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第十章 火のなかに放り込まれた物質は、古い性質を失い、新しい性質を獲得する



 結局のところ、僕たちは第四しんぼるである『首なし狐像』を持ち去ったムシカを見つけることができなかった。第七しんぼるである魚止めの滝の『炭窯』を破壊したあと、僕らは何もすることができなかったのだ。なにしろ、ムシカに関する情報などこれっぽっちも持ち合わせていなかったのだから。そのようにして僕たちは、手かせ足かせに繋がれた哀れな囚人のように何もできないまま、象蟲の再生が達成される日である八月二十日、正午をむかえた。
 僕とゲバルトは古書店のフリー・スペースに腰を下ろしていた。ゲバルトは煙草をふかし、僕は新聞を眺めていた。沙希は午前中には来ると言っていたが、まだ古書店には訪れていなかった。
「そういえば、象蟲の再生の条件は残り二つありましたね」と僕はゲバルトに言った。
「ああ。六が『街の穴に白い子どもたちを閉じ込めること』。そして、七が『忌み嫌われている生き物である蚓它(インタ)を食すこと』だ。もし、全てのしんぼるが破壊されていなかった場合、いずれも今日の午前中に達成される条件だ」
「その二つの条件は今までの条件と比べていくぶん抽象的ですね」
「ああ。それもそのはずだ。沙希はこれらの条件を実際に現実に存在するものでモデル化していないんだ。つまり、これらは概念だ。ただ『街の穴』とは開けられたマンホールのことだろう。しかし、『白い子どもたち』はある種の暗喩であり、概念としてのモデルでしかない。そして、蚓它(インタ)とはミミズとヘビの複合的な想像物だ。現実には存在しない。そして、それを食すのはシンセカイの大人たちだが、実際に現実でこれらの現象が起きる場合、どのようなことが起こるのかはまったく見当がつかない」
 僕は腕時計を見た。十二時五分。「象蟲が再生される時間を超えましたけど、特に変わったことは起こりませんね」
「象蟲が復活することが現実の世界でいったい何を意味するのか、俺たちには分からない。つまり、シンセカイではその事象はアルビナとムシカによって未然に防がれるわけだからね。それが達成されたとき、どうなるかはまったく分からないわけだ。おそらく、それが達成された物語を書き綴っていない沙希にもそれは分からないかもしれない」
 沙希はまだ来なかった。いったい何かあったのだろうか。
「沙希、遅いですね」と僕は言った。
「象蟲の再生と関係なければいいが」そう言って、ゲバルトは吸っていた煙草を灰皿に押しつぶした。そのとき、ゲバルトの腕に『暴力』の黒い呪いがみえた。しんぼるが全て破壊されたのかは分からないが、とりあえず僕たちはまだ呪われているのだ。
「珈琲でも飲むかい?」とゲバルトが言った。
「はい、頂きます」
 ゲバルトは、椅子から立ち上がり、フリー・スペースを出て行った。僕はフリー・スペースの小窓から外を覗いた。そんな風にぼんやりと眺めていると、ふと僕は懐かしい気持ちになった。僕がはじめてフリー・スペースで沙希と対峙したときのことを思いだしたのだ。そのときも、この擦りガラス越しに外を覗いていた。そして、沙希の黒い影が通り過ぎるのを眺めたのだ。今考えると、それはとてつもなく昔のことのように思えた。
 ふいに、擦りガラス越しに影が通り過ぎた。ガアプが補助輪をがたがたと転がしながら、甘えるような声を出した。ガアプがこのような声をあげるのは、沙希以外にはいなかった。ゲバルトにも、僕にも、このような声を出すことはなかった。ようやく、沙希が古書店に訪れたのだ。

 僕と沙希は隣同士に座り、ゲバルトは僕の真正面に座った。沙希は神妙な面持ちをして黙っていた。そこには、こちらからは声をかけることができないような雰囲気があった。僕たちは沙希が何かを話しはじめるまでひたすら待つことにした。
 ふいに、沙希は床に置いてあったスクールバッグを自分の膝の上に置き、ジッパーを開けて、中をがさごそとあさった。それから、沙希は『何か』を取り出して、机の上に置いた。
 それは、透明なビニールの袋に包まれた黒い粉のようなものだった。僕にはそれが何なのか分からなかった。ゲバルトも不思議そうな顔をして、その黒い粉を見下ろした。
「焼かれたの」と沙希は言った。その黒い粉のようなものは、つまり『焼け焦げた何か』ということだ。
「誰に焼かれたのかは分からない。でも、焼かれてしまって、すべてが分からなくなってしまったの」と沙希は続けた。
 僕は口をあけた。「それはいったい何?」僕は焼け焦げた何かを指差しながら、そう言った。
「シンセカイのノートよ。五冊、すべて焼かれてしまったの」
 僕は驚かずにはいられなかった。「いったいどうして?」
「わからない。私はノートを自分の部屋にある机の抽斗に鍵をかけてしまっていた。けれども、朝、目をさまして、鍵を開けてみると、そこにはノートはなかった。私はずいぶんいろんなところを探した。ベッドの下やら、本棚のなかやら、ソファと壁の隙間やら、カーペットの下やら、とりあえずいろんなところを。そして、見つけたの。焼かれたノートは郵便受けに入れられていた。この透明なビニールに包まれて、焼け焦げた何かへと成り果てて」沙希は焼け焦げた何かを少し持ち上げてから、すとんと机の上に落とした。焼け焦げた紙片から『シン-』という文字がかすかに読み取れた。
「これは象蟲の再生と何か関係があるのだろうか?」とゲバルトが言った。
「それは分からない」と沙希は言った。
「象蟲が再生された場合、物語のなかではいったいどのようなことが起きるのか、君は想定していた?」とゲバルトが続けた。
「想定していたかもしれないけれど、もう思いだせないの。その焼かれたノートを見つけたとき、私はあることに気づいたの。シンセカイに関する記憶がまるで不透明な膜に覆われてしまったかのように、とても不明瞭になっていることに。つまり、私はもはや『軸』としての概念を失ってしまった」沙希はそう言って、椅子から立ち上がり、スカートをたくし上げた。さらけ出された雪のように白い太ももには彼女に与えられたはずの『軸』という黒い呪いが消えてなくなっていた。
「『軸』の消失は、いったい何を意味するんだろう?」と僕は言った。
「わからない」沙希は、力なく呟いた。
「彼女は、シンセカイの物語の『軸』と呼ぶべき存在だった」とゲバルトが言った。「なぜなら物語を想像し、世界を創造した者だからね。その『軸』が今、揺るがされたというわけだ。シンセカイが焼かれてしまうことによって、記憶も呪いも奪われたということだ」
「世界が焼かれたことでまったく新しい世界に変わってしまったのかもしれない」と僕は呟いた。「つまり、この世界はもはやシンセカイではなく、『こんがりと焼かれた世界』だ。つまり、シンセカイは知らぬうちに、言うならば『ベイクド・ワールド』と呼ぶべき世界に変容してしまった」
 ゲバルトは静かに頷いた。「ただ、『軸』は失われたが、俺はまだ『暴力』としての呪いを受けている。そして、亜季君も『アルビナ』としての呪いは受けたままだ。ようするに物語自体は継続しているということだ、沙希という想像者なくしてね。ただ、舞台が亜季君の言葉を借りるならば『ベイクド・ワールド』という新しい舞台に置き換わったということだろう」