ベイクド・ワールド (上)
五 丸渕の滝
六 観音の滝
七 魚止めの滝
稲子川の対岸にある遊歩道と林道に魚止めの滝以外の六つの滝は存在する。しかし、魚止めの滝だけは違っていて、この滝はもっとも最北端に位置し、天子ヶ岳の登山口から深い森のなかに入らない限り、見つけることができない。そんな七つの滝のうち、もっとも道のりが険しい滝を第七しんぼるのモデルとしていることはある意味で納得のいくものだった。しかし、それを壊しに行かなくてはならない僕にとってはまったく納得のいくものではなかったけれど。
「山を登るにはいろいろと準備が必要だ」とゲバルトが言った。「今日は準備に徹することにしよう。昔、俺も天子の七滝には行ったことがある。魚止めの滝へと向かう林道へは自動車である程度の場所まで行けるはずだ。俺が車で君たちを送るよ」
「いいんですか?」
「ああ、もちろん。俺にはそんなことくらいしかできないからね。ただ、俺は君たちと一緒に山を登ることはできない。山を登るには年をとりすぎているからな。車のなかで君たちの帰りを待つ」
「十分です。ありがとうございます。しんぼるの破壊は僕たちでやります」それから沙希を見て、「沙希。明日には行ける?」と僕は言った。しんぼるを壊すのはできるだけ早い方がいい。
「私はいいわよ」
「俺も大丈夫だ」とゲバルトが言った。
「じゃあ、明日、早朝。魚止めの滝を目指そう」
「それなら、君たちは早く準備をしなくてはならない」とゲバルトは言った。「登山服やら、リュックやら、ライトやら、食糧やら。いろいろと今日のうちに準備しておくんだ。山を登るときに何がもっとも大切かといえば、それは準備だから」
僕はそのとき、ふと徹とのキャンプ場でのできごとを思いだした。山のなかで行方不明になった徹が翌日、傷一つつけずに戻ってきた、あのできごとだ。あのとき、誰も気づいていなかったが山から帰ってきた彼は確かに変容していたのだ。まるで黴が身体のなかで育ち、知らぬうちに自分が損なわれてしまうかのように。まるで脈打つ痛みがしだいに鈍い痛みへと変わるように。知らぬうちに、それは変容していく。森という場所はそのような場所だ。僕たちは知らぬうちに変容してしまわないようにしっかりと準備をしなくてはならない。登山服やら、リュックやら、ライトやら、食糧やら、を準備するのだ。僕と沙希は今日までにこれらの準備を完了し、明日の早朝、ゲバルトの車で魚止めの滝に向かうことを約束した。
フリー・スペースに小さな沈黙が生じたとき、外から聴こえていたはずの世界終末を告げるかのような音はもはや聞こえなくなっていた。
「どうやら、第四条件は終わったみたいだね」と僕は沙希に言った。
「だとすれば、第五の条件が今起きる。シンセカイでは第四条件が達成された時点で第五条件がはじまる」
「第五の条件って何だったかな?」
「『消えない雲を浮かばせること』よ」
僕と沙希とゲバルトは席から立ち上がり、店の外へと出た。そして、僕たちは奇妙な音が鳴りやんだ空を眺めた。そこには、確かに奇妙な雲が空一面を覆っていた。それは飛行機雲のように空を細くたなびくような雲だったが、そのような雲が空一面を縦横無尽に走り、空を覆い隠していたのだ。それは僕たちにあることを警告しているかのようだった。つまり、お前たちは格子のなかに閉じ込められている、ということを象徴しているかのような雲だったのだ。そして、奇妙なことにその雲は動かなかった。風によって流されることもなく、それは絶えずそこに居座っていた。
しかし、僕たちにはそれをどうすることもできない。ただただ受け入れることしかできないのだ。僕たちがやるべきことは山へ登るための準備をすることだ。そして、明日、第七しんぼるを壊すことだ。僕は沙希とゲバルトに別れを告げ、明日のための準備に取り掛かった。
早朝、朝霧に包まれた深い緑のなかに僕たちはいた。天子ヶ岳登山口に設置された簡易駐車場でゲバルトと別れを告げ、僕たちは登山口から林道入山線に入り、道に沿ってただひたすら登り続けた。約一時間を消費して僕たちはようやく魚止めの滝の入口に到着した。
『魚止めの滝 入口〜ここから往復40分〜』
そう書かれた木材でつくられた貧相な看板が目に映った。片道で二十分程度ということだ。一時間近く歩き続けてきた僕にはその時間の長さは精神的な圧力を緩和させた。ここにたどり着くまでの山道の起伏はそれほど急ではなかったが、僕たちの体力を少しずつ奪うのにはそれは十分だった。
林道へと足を踏み入れると、近くの木に『熊出没注意!』と書かれた仰々しい色彩の警告用の看板が貼り付けられていた。
「沙希、鈴はもってきた?」と僕は言った。僕も沙希が僕のことをアルビナと呼ぶように、知らずうちに沙希を呼び捨てで呼ぶようになっていた。
「持ってきたわ」と言って、紫色の小ぶりのリュックから沙希は鈴をとりだした。僕たちは熊除けの鈴を身体にぶら下げて山のなかへと入っていった。林道の脇には短い間隔で案内札が設置されていたので、特に迷う心配はなさそうだった。僕たちは案内札に書かれた矢印に従って進んでいく。なだらかな傾斜を進んでいくと目の前に堰が現れた。それほど水量は多くなかったため、堰の上を渡り、中央まで進んだ。僕が先に進み、彼女に手を差し出して、沙希をこちら側に渡らせた。堰を渡っている最中にオオカワトンボが飛翔していく姿が見えた。水色の体躯に褐色の翅をもつトンボだ。まるで僕たちを深い森に誘うかのように飛んでいった。堰を抜けたあと、さらに林道を進んでいく。少しずつ傾斜が急になって行き、枯れ木や岩が転がり、踏み進むべき道を選ぶのに苦労する。呼吸が少しずつ乱れていくのを感じた。沙希も乱れた呼吸をしていた。
「大丈夫?」と僕は訊いた。
「大丈夫よ」沙希は乱れた呼吸を整えながら言った。
川原が目の前に現れた。あちらこちらに大小さまざまな岩が転がり、それらの岩には苔がびっしりと生えていた。枯葉や枯木に足をとられそうになりながらも、慎重にゆっくりと進んでいった。辺りには名前も知らない茸が大木に生えていたりする。川原を超えた先には、さきほどよりも急な斜面が現れる。丸太で簡易な階段がつくられているが、そのいくつかは腐敗が進んでいた。僕は彼女の手をもち、じぐざぐに設置された階段を登って行く。次第に道幅が狭くなっていく。足を滑らせないように僕たちは注意をした。
その先は、さらに道幅が狭い。蟹のように横に歩かなければならない。転落防止のためなのか、木々の間にロープが張ってあったが、いくつかのロープはたるんでしまっており、とても安心感できるような代物ではなかった。再び、川原に合流する。小さな川を渡るための竹と木板でつくった簡易の橋がかかっている。どうやら二つの橋がかかっていたようだが、一つの橋が川原に落ちてしまっている。橋のすぐ目の前にはまっ平らな岩の上から水が流れ落ちている。片側が落ちてしまっていた橋を慎重に渡り、対岸に進む。ここから先は川原の岩をつたいながら進んでいく。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義