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ベイクド・ワールド (上)

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「彼の補助輪の後脚さ。『ガープの世界』で起きる不条理な出来事に匹敵するような不条理な出来事により彼は脚を失った」そう言って、ゲバルトは語り始めた。「数年前に、そこの通りで交通事故があった。被害者は近所に住んでいた独り暮らしの老婆だった。彼女はよくこの店に来た。小説が好きでよく雑談をした。その日、俺はいつもどおり店番をしていた。すると外からものすごいスピードで走行する車の音が聞こえた。そのあと、なにかにぶつかる鈍い音と犬の鳴き声が聞こえた。俺はすぐに事故だろうと思った。俺が外へ出ると、老婆と彼女が可愛がっていた犬が倒れていた。それがガアプだ。老婆は頭からひどく流血していた。その状態を見ただけで即死しているのは明らかだった。ガアプは後両脚がもげていた。這いながら、か細い声をあげ、血に染まった老婆の頭をなめていた。老婆を轢いた車はなかった。ひき逃げだったんだ。俺は店に戻り、警察と救急車を呼んだ。老婆の体を路肩にあげた。ガアプのもげた両脚を包帯で強く結んで止血した。ガアプはその間も老婆に寄り添っていた。しばらくすると、パトカーと救急車が到着した。救急隊員が老婆を救急車に乗せようとすると、ガアプは暴れた。けれども動物を救急車に乗せることはできないし、ガアプもひどい怪我をしていた。だからガアプは警察に保護され、動物病院に運ばれた。老婆は病院ですぐに死亡判定が下された。身寄りがなかったから、市によって事務的に火葬され、無縁仏として納骨されたらしい。ガアプは治療を終えたあと、飼い主死亡により動物指導センターに保護されることになった。俺はせめて、ガアプだけでも救いたいと思って、こいつを引き取ることにした。ひき逃げをした車の運転手も数日後に掴まった。四十代後半の無職の男だった。男は死んだ老婆やガアプに対して直接的な責任を一切負わない。俺はそのことをひどく悲しく思った。この救い難い暴力的事象が無機的に処理されてしまうなんて悲しすぎるだろう。ガアプは精神的なショックで毛は抜け落ち、鳴くことができなくなった。体が常に震え、食事を与えても食べず、みるみるうちに痩せ細っていった。与えられた暴力は決して消えることはないということだ。ましてガアプは両脚を失い、肉体的欠陥を負った。俺にできることはない。このガアプが抱えた不条理さがまるで『ガープの世界』と似ている。だけど、ガアプの現状はよくなりつつある。俺が何かをしたというわけではない。ガアプ自身の生きる意志だ。彼は彼自身でその不条理を打ち破ることができるかもしれない」ゲバルトはそう言って、ガアプの頭をなでた。
「ゲバルト」と沙希が声を上げた。
「ああ」とゲバルトが言って、腕時計に目をやった。「そろそろか」
「何がですか?」と僕は言った。
「象蟲の再生の条件の四番だよ。あっただろ? 『空に音楽を捧げること』がそろそろ起きるはずだ」ゲバルトはそう言って空を見た。

 その瞬間、空から不思議で奇妙な音が鳴り響いた。

 僕たちは空を見上げた。まるで金属と金属を擦り合わしているかのような耳障りな音が空から聴こえてくるのだ。
「はじまったみたいね」と沙希が言った。
「これが、『空に音楽を捧げること』?」と僕は言った。
「きっと、そう」
 その音はしだいにエコーがかかったようなくぐもった音になった。まるで重い金属製の扉を開けるかのような心地の悪い音だ。街の建物はその音を反響させて、辺りを振動させた。一部の街行く人が空を見上げた。「どこかの工事かねえ?」と中年の女は歩きながら、隣の女に話しかけていた。
「象蟲の再生の条件ははじまっても今の私たちに何もできることはないわ。私たちはしんぼるを壊すことしかできないの。アルビナ、昨日のしんぼるの破壊について話に来たんじゃないの?」と沙希は言った。
 そこで、僕は我に返った。そのとおり。僕はしんぼるの破壊について話にきたのだ。いや、正確には第四しんぼるの破壊の失敗と、第五、第六しんぼるの破壊の成功についての話になる。そして、もっとも重要なムシカと名乗る男の存在について話さなければならなかった。僕たちは空から流れる世界終末を告げるような音を無視して古書店の中に入った。

 僕たちはいつもどおりフリー・スペースに腰を下ろした。そして僕は昨夜の一部始終を話し始める。
「まず結論をいうと、昨夜、第五、第六しんぼるの破壊には成功したけれど、第四しんぼるの破壊には失敗した」と僕は正直に言った。
「失敗というのはどういうこと? 場所が分からなかったとか、そういうこと?」と沙希は不思議そうに訊いた。
「違う。ムシカと名乗る男に襲撃された。第四しんぼるは、そいつに奪われた」
 沙希とゲバルトは顔を見合わせて黙った。
「君はムシカにはモデルがいないと言っていた。だけど、そいつは僕がそこに来ることが分かっているようだった。それに君の名前も知っていた」
「私には分からない。ムシカには本当にモデルがいないもの」と沙希は言った。
「もしかしたら、それは彼女の『思考の隙間』によって、もたらせれたものかもしれない。もちろん、確証はないけれども」とゲバルトは言った。
「いずれにしても、とても厄介なことになった。第四しんぼるは奪われ、もはや破壊することができない。ムシカの正体もまったく分からない。まさにお手上げ状態だ」
 フリー・スペースに重い沈黙が流れた。外から鳴り響く世界終末の音はまだ聞こえていた。先ほどよりもいくぶん小さくなっているようだったけれど。
「ただ」と沙希は沈黙をやぶった。「奇妙なことに、私のシンセカイでの物語では、第四しんぼるだけはムシカが破壊するの。もちろん、アルビナと協力関係にある状態で、ということになるけれど。だから物事をいい方に考えれば、もしかしたらムシカは奪った第四しんぼるを自分で破壊したかもしれない」
 僕は反論した。「あいつがそんなことをするようには思えない。第四しんぼるを奪った理由は知らないけれども、彼は君の物語の役割には従わない、と言っていた」
「しかし」とゲバルトが言った。「今の俺たちにはもはやどうすることもできない。第四しんぼるはとりあえず保留にして、第七しんぼるの破壊を先決にした方がいいかもしれないな」
 僕は小さく頷いた。「河中さんが言うとおり。もうどうしようもない。それしか方法はない」
 沙希はしばらく考えるような顔をしてから、「第七しんぼるの破壊には、私も着いていくわ。もしかしたらムシカが現れるかもしれないし、それで何かが分かるかもしれない」と言った。
「そうしてもらえるとものすごくありがたい」と僕は言った。「最後の第七しんぼるは、確か魚止めの滝の『炭窯』だったね」
「そう。魚止めの滝の隣に石で築きあげられた炭窯があるの。それが、第七しんぼる」

 富士宮市にある天子ヶ岳には北から南へと流れる豊かな清流に恵まれた稲子川がある。稲子川は日本三大急流の一つに数えられる富士川へと注がれていく。富士川は駿河と甲斐を結ぶ水運としての重要な場所であり、昔から人々の生活を支えてきた川だ。その稲子川と富士川を繋ぐ川沿いは深い緑に包まれていて、天子の七滝と呼ばれる七つの滝が存在する。

一 清涼の滝
二 不動の滝
三 瀬戸の滝
四 しずくの滝