小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ベイクド・ワールド (上)

INDEX|26ページ/33ページ|

次のページ前のページ
 

「それでも、好きだったんだよ、あいつは。君のこと、本当に好きだったんだ。それは僕が保証する」
 玲は何も言わずにうつむいた。
「僕が徹の代わりを務めるから、我慢して。徹には到底及ばないかもしれないけど」
「……ごめんなさい。私、本当にあのときひどいこと言った。亜季は亜季だよ。私にとって大切な存在。徹お兄ちゃんも亜季お兄ちゃんも同じように大切な存在。亜季は亜季の思ったとおりにして。徹お兄ちゃんのことを考えなくていいの。ごめん。私、言ってることいつも矛盾するよね。私って、本当に……」
「分かった。僕は僕なりに君のことを大切にするよ。僕が思う、いいと思う方法で」
「うん」
 うつむく玲の胸元からプラチナペンダントがのぞいた。水色のトパーズが美しい光を放っている。このペンダントは玲の誕生日に徹がプレゼントしたものだった。徹が死んだあとも、玲はこのペンダントをずっと身につけている。このペンダントをみると、僕は徹との会話を思いだす。忘れもしない、それは玲が十二歳の誕生日を迎えたときだった。つまり、徹が玲にこのペンダントをプレゼントした日、僕と徹は不思議で奇妙な会話をした。

 玲の誕生日パーティーが終わり、僕が寝るために自分の部屋に戻ろうとしたとき、徹は僕を呼び止めて、あることを尋ねた。
「亜季。お前は、宇宙は無限だと思うか?」
 僕は唐突の質問に戸惑ったが、少し考えてから「無限だと思う。宇宙は膨張し続けてるって、このまえ地学の先生が言ってた」と僕は答えた。
「そのとおり」徹は頷いた。「宇宙、つまり外的世界は無限に存在するわけだ。だとすれば、だ。内的世界は無限だと思うか?」
「内的世界?」
「それはつまり……」と言って、徹は胸に手を当てた。「心、だよ」
 僕は首を振った。「そんなの分からないよ。だって心は物質じゃないんだから」
 徹は僕と同じように首を振った。「いいや、心だって物質さ。実際に触れることができる」と徹は言った。「で、お前はどう思う? 心が無限か、有限か、という問いに対してお前はどう答える?」
 僕は答えられなかった。心に限りがあるのかないのかなんて、その頃の僕にとってはどうでもよかったのだ。僕が黙っていると、徹はやれやれという風な表情をして口をあけた。
「俺はな、無限だと思うんだ。心はいわば閉じた世界だ。けれどな、心は無限に閉じ続けることができる、まるでマトリョーシカみたいに。つまり、心は階層構造で出来ているってわけだ。そこで、だ。心を閉じ続けた結果、いったい何が起きるか分かるか?」
 分からない僕は黙ったままだった。徹は話を続けた。
「それはつまり、『絶望』だよ」そこで、徹は一呼吸、置いた。「キルケゴールのいう『死に至る病』というやつさ。それは絶対的な絶望だ。そこで、俺は兄として君に教えておかなければならない。つまりそれは、もしお前が『心を閉じ続ける』という『死に至る病』を患った人を見つけたなら、ゆっくりでも構わない。その閉じた心をひとつずつひとつずつ開けてあげるんだ。開け方は、君がいいと思うどんな方法でも構わない。お前は運の悪いことにマトリョーシカみたいになってしまった人間を、助けてあげられるようなそんな人間になって欲しいんだ。分かるか?」
 その時の僕には彼が言っていたことを何も理解することができなかった。ただただ、黙って頷くことしかできなかった。ただ、今なら理解することができる。
 つまり、僕は玲を助けてあげなくてはならない、ということだ。僕は、徹が死んだあとも、彼から多大な影響を受けて行動している。僕の思想の大部分は彼のものだとも言える。その事実に僕はまさに絶望しそうになったが、あいにく僕には絶望している暇などそもそもなかったのだ。

 玲との話を終えて、僕がゲバルトの古書店に訪れたのは正午になる前だった。ボーダー・コリーは後脚代わりの補助輪をがらがらと鳴らしながら走りまわっていた。沙希は小皿にドッグフードを入れているところだった。
「ガアプ、たくさん食べるんだよ」沙希はボーダー・コリーに言った。ボーダー・コリーは尻尾を振りながらドッグフードを散らしながら食べた。
「その犬、ガアプって言うんだ」と僕は沙希に声をかけた。
 僕の声に反応した彼女はこちらへ振り返った。「アルビナ」沙希は僕のことをアルビナと呼び捨てにするようになった、ゲバルトと同じように。「そう。この子はガアプって言うの」
「なんで、ガアプって名前なんだろう?」
「知らない」と沙希が言うと、店内からゲバルトが出てきて、「ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』から取ったんだ」とゲバルトが言った。「君は知ってるかい?」
「作家の名前だけなら」と僕は答えた。
「興味があれば読んでみるといい。とても不思議で奇妙な物語だから」とゲバルトは言った。「物語のはじまりは、主人公であるT・S・ガープがどのようにして生まれたか、について語られる。これがなかなか滑稽で。ガープの母は看護師なんだが、子は欲しいが夫はいらないという人だった。あるとき、彼女は戦争で意識不明になった三等曹長のガープの看護をすることになる。そのとき、彼女は彼と一方的に交わり、彼の子を身に宿す。こうしてT・S・ガープが生まれる。こんな奇妙な出生から始まったガープ家をめぐる壮大な物語なんだが、登場人物たちはさまざまな不条理な出来事に翻弄されていく。まるで今の君みたいにね」
「その物語とガアプの接点は何なんですか?」と僕は訊いた。