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ベイクド・ワールド (上)

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第九章 たとえば、君の心のなかをのぞき見ることができたとして、それにいったいどんな意味があるのだろう



 白む朝の列車に揺られながら、僕は流れゆく景色を車窓からぼんやりと眺めていた。頭には昨夜の痛みを継続して感じていた。ただ、今感じている痛みは、昨夜の脈打つような痛みではなく、それは鈍い痛みだった。痛みの種類は変容していたが、痛みは確かにそこにあった。その痛みは僕を僕たらしめるものだ。なぜなら痛みとは自己と他者を分け隔てるものだから。僕の感じる痛みは他の誰にも感じることができない。他の誰かの痛みを知りたいと思ったとき、僕たちは自分の痛みの記憶を思い起こして想像することしかできないのだ。それは単なる虚構の痛みにすぎない。
 昨夜、第五、第六しんぼるを破壊したあと、僕は辰起緑地を離れて徹のアパートへと向かった。静岡駅に戻ったとしても終電の列車には間に合ったが、そこへ向かい、自宅へと帰るほどの気力をその時の僕は持ち合わせていなかった。それにきっと殴られて、ひどい顔をしているのは間違いなかったし、僕は早く落ち着ける場所に行き、体を休ませたかった。辰起緑地からアパートまでは三十分の徒歩で到着する距離だった。
 両足にひどい疲労感を感じながらアパートに到着すると、僕はすぐに服を脱ぎ、それを洗濯機へと放り投げ、シャワーを浴びた。そして、泥と血にまみれた身体を念入りに洗った。身体を伝って滴り落ちる水は赤茶色になって排水溝に吸い込まれていった。殴られた後頭部を水に濡らすと激しい痛みを感じた。それでも僕は我慢して頭にこびりついて固まった血をこすりながら洗い流した。洗っていくうちにその痛みには慣れていった。
 浴室から出て、水気をバスタオルでぬぐったあと、部屋に置かれたウォールミラーに自分の姿を映した。自分が思っていたよりも身体には傷が見当たらなかった。もちろん痛みのある体の箇所を見ると、そこには小さな切り傷などがみられた。だが、全身をみたときはそれはいたって正常のように見えた。後頭部の大きな傷も髪の毛に隠されて何も見えない。
 痛みは隠される、と僕は心のなかで呟いた。誰かが僕をみたとき、きっと誰も僕が痛みを感じているとは思えないはずだ。隠された痛みの意味について、僕は鏡を眺めながらしばらく思案した。だが、答えはそこにはなかった。僕は電気を消し、目を閉じ、虚構の眠りのなかに落ちていくしかなかった。

 列車のアナウンスが藤枝駅に到着したことを告げた。僕はプラットフォームに降り立った。僕は玲のことを心配に思い、早朝、徹のアパートから自宅へと向かうことにしたのだ。しんぼるの破壊について、ゲバルトや沙希に話をするのは午後からにしようと考えていた。朝のプラットフォームには人がまばらにいるだけだった。僕は階段を上り、改札を抜け、自宅へと向かうバスに乗り込んだ。
 自宅に着くと、すぐに僕は玲の部屋に入った。ベッドの上には毛布から顔を出した玲が寝息をたてていた。いつもは前髪で瞳が隠されてしまっているが、前髪が左右に流れておでこが露わになっていた。実際のところ、彼女はとても奇麗な顔立ちをしていた。おでこを出すと、その美しい顔立ちはさらに際だった。
 その顔立ちをみていると、否応なく僕は徹のことを思いだす。徹と玲の顔立ちは似ていた。それはつまり、どちらも母親似であることを意味する。一方、僕は父親に似ていた。母親の顔のどのパーツも僕は受け継いでいなかったのだ。そのために、僕は僕の父親のように何も考えていなくても常に不機嫌な顔立ちをしていた。
 そんなどうでもいいことを思いながら玲の寝顔を眺めていたら、玲は僕がいることに気がついたのか、目をさました。彼女は閉じられた目をゆっくりと開き、光にまだ慣れていない目をゆっくりと慣らしていった。そして細めた目で僕を見つめた。
「……亜季」と玲は言った。
「おはよう、お姫さま」と僕は言った。「いい目覚めかな?」
 玲は黙った。小さな沈黙が部屋を包み込んだ。玲は近くにあった枕を抱きしめてから、うつむいた。
「……ごめん」と玲は身体を震わせながら言った。今にも消え入りそうな、か弱い声だった。しなだれた黒髪の隙間から漆黒の瞳が透明な涙に濡れているのが見えた。
「……ごめん、なさい」と玲はもう一度、言った。「……私、本当にだめだ。亜季が優しくしてくれてるの、分かってるの。分かってるのにいつもあんなひどいこと言っちゃって。本当にだめ。私って本当に冷たい」玲の声は喋れば喋るほどに涙に震えた。
 僕は黙ってうつむく玲を見つめた。それから、君が謝る必要なんてない、と心のなかで呟いた。玲が涙を流して、僕に謝るとき、いつも僕はとても悲しい気分になる。君を泣かせたくないし、君を悲しませたくない。僕はうつむいた玲の瞳からこぼれ落ちる涙を僕のパーカーの裾でぬぐった。裾に染み込んだ涙は僕のねずみ色のパーカーに黒い染みをつくった。その黒い染みはきっと玲の悲しみだ。僕はその悲しみをすべて引き受けてあげたいって、心から思った。けれど、僕が涙を染み込ませば染み込ませるほど、玲の涙はあふれ出てきた。
 僕はただ黙って、玲の身体を強く抱きしめた。大丈夫、心配ない、と心のなかで呟きながら。だって君の身体はこんなにもあたたかいじゃないか。君は決して冷たい人間なんかじゃない、とてもあたたかい人間なんだ。
 そして、冷たいのは僕の方だ、と心のなかで呟いた。僕は君のあたたかさを感じることができる、それはつまり僕が冷たさを帯びているということだ。僕は君のあたたかさを奪いとることしかできないのだ。僕はゆっくりと身体を離して、彼女の頭を優しくなでた。
「気にすることない」と僕は言った。「君は僕の自慢の妹だ。とても優しい妹だ」
「私、優しくなんかない。亜季の気持ちも分からない、だめな妹だよ」
「だめなんかじゃない。だって君はこうして泣いてるじゃないか。僕のことを思って泣いてくれてるんだろう?」
 玲は嗚咽をもらしながら、静かに頷いた。
 僕は玲をもう一度抱きしめて、「ほら、優しいじゃないか。君はこんなにもあたたかいんだぜ」と言った。
「あのあと、亜季が家に帰って来なかったから、すごく怒ってると思ったの。私のこと、本当に嫌いになったんじゃないかって、すごく心配したの……」玲はあふれ出る涙を手の甲で拭き取りながら言った。
 しばらく僕は沙希やゲバルトと一緒にいて玲に構ってあげられなかった。そのせいで玲を不安にさせてしまったのだろう。「僕が君のことを嫌いになるわけないじゃないか。だって君は僕の妹なんだから」僕は玲の手をやさしく包み込んだ。それから「もちろん、徹だって、そうだ。あいつも君のことすごく好きだった」
「……それなら、どうして徹お兄ちゃんは……」そのあとの言葉を玲は紡げなかった。
「彼には彼なりの問題があったということだ。僕たちにはもう知るすべがない」僕はそう言ってから、徹が僕に宛てた遺書のことを思いだした。青いインクで書かれた『深瀬亜季ニ宛テル』という文字が頭のなかを過った。徹の遺書はそれ以外になかった。両親に宛てるものも玲に宛てるものもなかった。僕にだけに彼は遺書を残したのだ。だが、僕はその遺書を破り捨ててしまった。もはや、彼が何を伝えたかったのかは永久に分からない。
「私のこと、好きだったら、『そんなこと』しないはずだよ」と玲は言った。