ベイクド・ワールド (上)
すでに帰りのバスはなく、僕は辰巳緑地まで歩いて向かわなければならなかった。iPhoneで表示したGoogleマップのルート案内では徒歩五十分と表示されていた。ルート自体は県道205号線をひたすらまっすぐに進めばいいだけだったので迷う心配はなかった。神社に降りる前の道が県道205号線だったので、僕は降りてきた坂を登り、緑地に向けてひたすら道を歩き続けていた。
すでに歩いて四十分弱近くになる。到着するまではもうすぐだった。その県道はほとんどが、民家が立ち並ぶ小さな道だった。もうすでに完全な夜をむかえていたので、人通りもなかった。自分では確認できないが、殴られてひどい顔をしているであろう僕にとっては、その姿を他の誰かに見られないで済むことは好都合だった。孤独に夜の道を歩いていると、それぞれの家から人が生きる生活感というものをよく感じることができた。蒸し暑い夜に窓を開けられた家からは、バラエティ番組なのだろうか、テレビの音とともに笑い声が聴こえてきた。その隣の家からは、夜食なのだろうか、ラーメンのいいにおいが鼻をかすめた。そこには、僕にとってはもはや懐かしいと思えるほどのありふれた生活が流れていた。
ふと僕の目の前から自転車がこちらに向かってくるのが分かった。僕の横を通り過ぎる時にふと目をやると、リクルートスーツを着た若い女だった。就職活動の大学生のようにみえた。さらにしばらく歩くと、駐車場で騒ぎながら花火をしている若者たちがいた。笑い声を上げながら、夜の街を騒騒しくしていた。僕はそのような光景のなかに現実感というものを感じ、僕のまわりに取り巻く非現実感というものが払拭されていくような気がした。
しかし、それはまさに一瞬のことだった。僕は、ようやく非現実の象徴ともいえる第五、第六しんぼるが存在する辰起緑地に到着したのだ。密集した住宅街のなかに囲まれた小さな公園のような場所だった。縦横十五メートルほどの広さで、四方には木々が生え、僕から見て右手側には青いベンチが二つ置かれ、左手側には鉄棒が設置されていた。中央には無機質な金属製の街灯が立ち、辺りを照らしていた。その街灯の直下にふたつのマンホールがあった。
僕は敷地内に足を踏み入れ、左のマンホールを左手で、右のマンホールを右手で触れてみた。両手から静かな鼓動を感じることができた。僕は辺りを見渡した。再び、謎の男に頭を殴られることは御免だった。しかし、辺りには人の気配は一切感じられなかった。緑地を囲む家々も眠りに落ちたように静まり返っていた。僕は、僕に多大な痛みを与えた木の棒を手に持ち、それを強く握り締め、大きく振りかぶった。そして左のマンホールめがけて、それを勢いよく振り下ろした。
マンホールは真っ二つに割れ、血しぶきが辺りに飛び散った。しぶきは近くにあった青いベンチにも飛び散り、青に赤いまだらができた。僕は謎の男が僕を殴ったように圧倒的な敵意をもってマンホールを叩き続けた。それから、マンホールのなかをうごめく血に濡れた艶やかな肉に握りしめている木を突き刺した。それを捩じりながら、奥へ奥へと刺し込んでいく。心臓を捉え、しばらくして左のマンホールのなかをうごめく肉がその動きを止めたのを確認すると、僕は右のマンホールを同じ方法で叩き潰した。それから左のマンホールの血肉がべっとりと絡みついた木で右のマンホールのなかで鼓動し続ける心臓を突き刺した。突き刺した瞬間、木が音を立てて二つに折れた。二つに折れた木はささくれ、そこには僕の圧倒的な敵意を体現したかのような二つの棘ができた。僕はその二つの棘を右手と左手で一つずつ持ち、それを強く握りしめ、しんぼるの心臓をえぐりにえぐった。僕の感じた多大な痛みをしんぼるにも感じさせるように、思い切りの力を込め、突き刺したのだ。
それは、すぐに終わった。時間はかからなかった。僕は第五、第六しんぼるを破壊した。しんぼるを破壊した僕は何か得体のしれない喪失感のようなものを胸に感じた。その失われたもののなかには、開かれた窓から聴こえてくるテレビの音や辺りを漂うラーメンのにおい、またリクルートスーツの女や真夜中の駐車場で花火をする若者たちもきっと含まれている。血なま臭く、蒸し暑い夜のなかで、僕はなんとなくそう思ったのだ。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義