ベイクド・ワールド (上)
振動は、感じはじめてからほんの数秒で停止した。僕は家康の身体の奥深くへと達した自分の腕を抜き取った。そして、石造りの上から飛び降りた。沙希はすぐに僕のもとに駆け寄ってきた。
「大丈夫?」と沙希は訊いた。
「ああ、大丈夫だよ。壊れたようだ」
「痛くはなかったの?」
「ああ。君のいうとおりだった。しんぼるの痛みは僕の痛みじゃなかったんだ。しんぼるの痛みはしんぼるのものであり、僕の痛みは僕の痛みだ。つまり、痛みとはそれをそれたらしめる要因に他ならないわけだ」と僕は言った。
沙希は小さく頷いた。
「さて、次は映画を観に行くんだろう? 映画のレイトショーはそろそろ始まってしまうし、急ごう」と僕は言った。
沙希と僕は金槌とナイフをスポーツバッグにしまい、本丸、二ノ丸を抜け、東御門橋を渡り、新静岡セノバへと向かった。
時刻は夜の十時を迎えようとしていた。横断歩道に出ると新静岡セノバが見えた。ガラス張りの丸みを帯びた未来的なフォルム。その中央には『cenova』と緑色の文字看板が設置されている。セノバは静岡鉄道新静岡駅の複合商業ビルで、休日になると若者や家族連れが多く訪れる場所だ。僕もビームスやユナイテッドアローズの服を買う際にはよく利用していた。
僕と沙希はセノバに入り、エスカレーターに乗り、九階を目指した。九階に映画館『シネシティザート』があるのだ。セノバの店内は人がまばらだった。十時にはほとんどの店が閉まってしまう。基本的に十時以降に来る人は映画を観る目的の人がほとんどなのだ。九階に到着したが、映画を観る人もまばらだった。レイトショーで映画を観に来る人はあまりいないようだった。ただ、それは僕たちには好都合なことだった。まともじゃない方法で座席を壊すには、うってつけの日だ。
僕と沙希は券売機コーナーに向かった。シネシティザートではチケットは券売機で売られている。座る場所もタッチパネル式の画面を操作して選ぶ。僕はシアター9で上映される映画を確認した。液晶画面には『A Perfect Day for Orangefish』と表示されていた。ミニシアター系のフランス映画のようだった。公開時はあまり注目されていなかったようだが、現実と幻想を境目なく描くストーリー展開が秀逸で徐々に評価を上げていたようだった。
僕は座席が空いているかを確認した。既に席が埋まっているのは五つだった。つまり、五人しか今のところ場内にはいないということだ。そして、彼らの座っている席には14-A席は見当たらなかった。僕は14-A席とその隣の15-A席のチケットを購入した。
「14-A席のチケットは手に入れた」と僕は沙希に言って、チケットを見せた。「君にはその隣の席のチケットをあげるよ」僕は15-A席のチケットを沙希に渡した。
僕が会場に向かおうとしたとき、沙希は僕の腕を掴んだ。僕は彼女を見つめた。
「どうしたの?」と僕は訊いた。
彼女は僕の後ろを指差した。僕が振り返ると、そこにはポップコーンが売られていた。
「食べたいの?」と僕は言った。
「うん、食べたい」沙希は頷いた。
僕は二人分のポップコーンとジュースを買って、彼女に渡した。閉館近くの映画館で売られるポップコーンは色合いが悪かった。そこには何か象徴的な意味がありそうだ、と僕はなんとなく思った。そんなとりとめのないことを思いながら、僕と沙希はシアター9に入った。
映画がエンドロールを向かえると、場内にいた五人――二組のカップルと一人の男――はすぐに席を立ち、場内から退出していき、あとには僕と沙希だけが残された。映画が上映されているあいだ、僕の座る14-Aの席は絶えず鼓動をしていた、それを身体で僕は感じることができたのだ。場内が明るくならないうちに、第三しんぼるを破壊し、退出するべきだろう、と僕は思った。
沙希は黙って、バッグからナイフを取り出した。それから「まともじゃない方法で壊すのよ」と言って、ナイフを僕に渡した。
僕はナイフを手に持ち、席から立ち上がり、座席をナイフで刺した。席が鮮血で濡れた。じわっと染みだすかのように赤い座席がさらに赤黒くなっていった。痛みはやはり感じなかった。僕は躊躇することなく何度も何度もナイフの先を座席に突き立てた。
実際のところ、鼓動が止まるのはあっという間だった、鮮血がその流れを止めるのもあっという間だった。僕は『まともじゃない方法』で第三しんぼるを破壊したのだ。場違いのように背景に流れているエンドロールの音楽が流れきらないうちに、僕たちはシアター9をあとにすることにした。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義