ベイクド・ワールド (上)
「セノバの映画館はシンセカイにおける街の大人たちの集会所を意味する。そして、席の破壊はその大人たちが行う象蟲の再生を目的とした集会の妨害を意味する。そういうモデルとして私は映画館の席を使ったの。何故、シアター9の14-A席をモデルにしたのか、というと、単に私の誕生日が九月十四日、それに血液型がA型だから。そんなつまらない理由だけど」
事実というものは実に単純なものだ。昨日もそんなことを思ったような気がする。そうだ、河中さんがゲバルトと呼ばれている理由を知ったときだ。まさにそのとおり、事実と言うものは実に単純だ。
「だけど、席を指定してくれていたのはありがたい。モデルを単に『セノバの映画館』とされていたら、映画館そのものを破壊する必要があったかもしれないから。14-A席だけで済むのはとてもありがたいね」僕は一度話を切り、珈琲に口をつけた。それからまた口を開いた。「それで、席はどのように破壊すればいい?」
「金槌ではなかなか壊れそうにないな」とゲバルトは言った。「それでは刃物で突き刺すというのはどうだろう? ナイフで切り刻めばきっと壊れるだろう」
僕は映画館の座席をナイフで切り刻む自分の姿を想像した。その姿は明らかにまともじゃない。僕はため息をついて、首を振った。
「今のところ、そういう方法しか考えられないわね」と沙希が言った。それから「それは明らかにまともじゃないけれど」と沙希は付け足した。
僕は諦めて頷いた。「分かった。『明らかにまともじゃない』方法で席を壊そう」
ゲバルトは胸ポケットからセブンスターを取り出し、火をつけた。煙草をふかしたあと、顔に笑みを浮かべながら言った。「ついでに、二人で映画でも見てくればいい。いつまでも緊張感や不安を抱いているのも疲れるだけだろう。いずれにせよ、映画館に入るにはチケットがいるからな。映画を観終わってから、席を『まともじゃない』方法で壊せばいい」
沙希は嬉々とした表情を見せた。沙希がそんな表情を見せるのは意外だった。生まれたての子猫のようにチャーミングな笑顔。それから、すぐに表情を戻して、「久しぶりに映画を観たいと思っていたの」と沙希は呟いた。
僕の痛みを知らずして、そんなことを言っているのか。ふう、まったく、と僕は心で呟いた。それから、映画館で映画を見るのは何年ぶりだろう、と僕は思った。
その日の夜はひどく蒸し暑かった。昼過ぎ頃に、まるで使用後のオーブンのなかのような茹だるような熱さに包まれた地上に激しい夕立が降り注がれたのだ。熱せられた大地はたちまちに雨を蒸発させ、地上は天然の蒸しサウナとなった。それが夜になった今もなお残っている。息苦しく気怠さをおぼえるような空気で夜が満たされているのだ。
僕と沙希は駿府城跡の東御門の前にいた。東御門は駿府城二ノ丸の東側にある入口だ。この門は中堀にかかる東御門橋、高麗門、櫓門、桝形門から構成されている。これらの門は復元されたものだが、桝形門は鉄砲狭間や矢狭間をもつ堅固な門で、そこには戦国の面影を感じとることができた。
僕たちは東御門橋を渡り、城内に向かった。今から徳川家康の銅像を破壊に行く僕たちを城は黙って受け入れてくれた。それはあまりにも無防備ともいえるものだった。敵を防ぐための門はいつでもそこで開かれているのだから。櫓で侵入者を見張るはずの人間もそこにはおらず、僕らは高麗門、櫓門、そして本来ならば鉄砲や矢が飛び交う桝形門をすんなりと通り抜け、二ノ丸へと足を踏み入れた。
駿府城は外堀、中堀、内堀という三堀からなる堅固な城だが、内堀は既に埋められてなくなっている。僕たちは埋められた内堀を歩いて渡り、すぐに本丸へと攻めることができた。駿府城の天守は確定的な資料が発見されていないため、復元されていない。そのため、本丸にあるべき天守はなく、天守があった場所は木々で丸く囲まれ、道が整備されており、庭園としての機能を有していた。僕と沙希は、家康像が建てられている北西を目指して、本丸の庭園を時計回りに歩くことにした。本丸は鬱蒼と茂った木々で囲まれているため、そこではいくぶん蒸し暑さが軽減された。道を歩いていると、ベンチでカップルが話をしている姿が見えたり、こんな夜の時間にも関わらず、ジョギングをしている人を見かけたりした。また、あまり関わるべきではないであろう一人でぶつぶつと呟く人間を見かけた。僕たちはそのようなさまざまな人物を避けながら、前へと歩き進んだ。
家康像は整備された道からやや外れた狭い道沿いにひっそりと建てられていた。武具を身につけた初老の家康が左手に鷹を乗せて前を見据えながら直立している、というような像。家康は一メートルほどの石造りの上に立っていた。
「早く済ませましょう」と沙希は言った。「私は見張っているから」そう言って、沙希は辺り全体を見渡せる場所に立った。
僕は声を出さずに頷いた。家康像が立つ石造りに手をかけ、よじ登った。石造りの上は人一人でさえ立つには狭すぎた。僕は家康の右手を掴んで身体を支えた。そうでなければ落ちてしまう。そのとき、僕は感じた。家康の手を掴んだとき、やはりそこには緩急のあるリズムを感じとれた。家康の胸に耳をあてれば、そこからは鼓動がはっきりと聞こえた。僕は上手くバランスを取りながら、沙希を呼んだ。「金槌とナイフを渡してくれ」と僕は言った。
沙希は周りを見渡すのを止め、背負っていたスポーツバッグから金槌と折り畳み式のナイフを僕に渡した。僕はナイフを右の尻ポケットにしまい、金槌は右手に構えた。その瞬間、また僕の腕が震えはじめる。昨日、生じた痛みの記憶が蘇るのだ。肉を裁断し、えぐり、ぐちゃぐちゃにする、到底耐えられない痛み。その記憶が蘇る。そんな僕を見かねた沙希は僕に声をかけた。「大丈夫。生じる痛みはあなたの痛みじゃない」と沙希は言った。僕はその言葉を心のなかで何度か反芻する。
生じる痛みは僕の痛みじゃない。生じる痛みは僕の痛みじゃない。生じる痛みは僕の痛みじゃない。
僕は意を決する。左手で家康の右腕を掴み、身体をしっかりと固定し、右手に掴んだ金槌に力を込めた。重く、蒸し暑い空気を引き裂くように、金槌を大きく振りかぶり、家康の心臓めがけて叩きつけた。
いともたやすく、家康の防具は粉々に粉砕され、なかからうねうねとした赤黒い肉が這い出してきた。僕はすぐに金槌を放り投げ、右の尻ポケットにしまったナイフを取り出し、ナイフの刃を肉へと突き刺した。ざくり、とナイフが筋肉の層を裁断していく感触を僕の手は感じた。
しかし、僕が感じる痛みはそこにはなかった。沙希の言うとおりだったのだ。生じる痛みは僕の痛みではなかったのだ。僕はナイフを何度も何度も突き刺した。刺せば刺すほどに、赤黒い肉の動きは緩慢になっていった。それは生が死へと近づいていっている証拠に他ならない。僕は渾身の力を込め、ナイフを家康の左胸の奥深くへと捩じりこんだ。僕の手に肉の感触がまとわりつく。ベトベトとして、ねばりを伴う生暖かい感触に包みこまれる。さらに奥へとねじ込むと僕の手はすっぽりと肉のなかに入ってしまった。それと同時にナイフが振動をはじめるのが感じられた。心臓を捉えたのだ。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義