ベイクド・ワールド (上)
第五章 目に映らないもの、そして、それを補うもの
呪いをうけるのだ、と沙希に宣告されたが、特に変わったことは起こらなかった。朝になって身体を動かしてみたが、どこにもおかしなところはなかった。痛みもなければ、痒みすらない。浴室にある鏡で自分の顔を眺めてみた。しかし、そこにはいつも通り、退屈な顔をした僕が退屈そうな表情を浮かべているだけだった。どこにも違和感なんてものはなかった。
僕はキッチンでお湯を沸かした。沸騰するまでのわずかな時間に、黴のにおいが染みついた身体をシャワーで洗い流した。粉末緑茶を入れた湯呑にお湯を注ぎ、それを持って僕は部屋の壁際に置かれたくたびれたソファに座った。
緑茶を少し啜ったあと、ソファの前に置かれたガラス製の小さなテーブルに湯呑を置いた。代わりに、iPhoneを手に取り、Safariを起動して静岡の地方ニュースをみた。この部屋で情報を得るためには携帯電話を使う以外に方法はない。アパートの主を失った部屋ではテレビは繋がらないし、新聞も届かない。パソコンもない。
ただ、おそらく多くの人は疑問に思うのではないだろうか。何故、アパートは借りたままにされているのか、と。それは、僕の父親の判断だった。住人が自殺した部屋は事故物件として扱われるわけだ。身内に自殺した人間がいない人には分からないだろう。自殺のあとになされる、数多くの事務的な手続きについて。その多くの事務的な手続きのなかで、兄が住んでいたこのアパートの管理人とは大きな諍いとなった。自殺という形にせよ、人が死んでいるにも関わらず、管理人は彼をひどく侮辱するような発言をした。もちろんそれは兄だけにとどまらず、僕たち家族をも含むものだった。僕たちを見るたびに、管理人は決まって軽蔑した視線を送り、嫌な顔をした。そして決まってこう言うのだ。あんたらはみんなまともじゃない、と。そのことにひどく腹を立てた父親は、兄が住んでいた部屋を買い取る、と管理人に告げた。僕は具体的にどれくらいの金を払ったのかは知らないが、あの管理人が快く承諾したことから、おそらく相当な額だったのだろう。このような事情から、このアパートは永久に僕たち家族のものとなった。
iPhoneの画面には、マンホールの消失についての記事と、空から降るオタマジャクシの記事が表示された。マンホールについては、街に設置されていた監視カメラの映像について書かれていた。記事の見出しは「まるで手品。消えるマンホール」とあった。『〜〜八月十四日、静岡市の呉服通りのマンホールがすべて消失する事件が起きた。通りに設置されていた五台の監視カメラはマンホールの消える瞬間を捉えていた。映像では早朝四時九分を境にすべてのマンホールがまるで手品のように瞬時にして消えた。静岡県警は何者かにより、映像が改ざんされている可能性があるとみて、現在捜査中である〜〜』と書かれていた。オタマジャクシについては、「空から降る一億のオタマジャクシ」という仰々しい見出しだった。二人の専門家が、オタマジャクシが空から降る理由を考察していた。鳥類保護を掲げる団体の代表は「サギなどの鳥が口に含んだオタマジャクシや小魚を飛翔中に吐き出すことはよくあることであり、それが原因ではないか。それほど騒ぐことでもない」とコメントし、気象観測所の所長は「小さな竜巻のようなものが発生し、田んぼにいたオタマジャクシを巻き上げて移動し、竜巻が消失した際に落ちて来たのではないか」とコメントしていた。
僕は、このいかにもまっとうな警察の調査と、いかにもまっとうな二名の代表の考察に首を振るしかなかった。今の僕にはこのような至極、論理的な推論を否定しなければならないのだ。なぜなら、これらの事件はいずれも沙希という一人の少女によって引き起こされたものなのだから。自分がいったい何に巻き込まれているか、いまだに実感が持てないが、既に僕は大きな謎に満ちた渦のなかにいる。冷めはじめた緑茶を一気に飲みほしたあと、僕は新しい服に着替え、街に出た。
呉服町通りでは、昨日に出来た数十個の穴には真新しい色をしたマンホールが既に被せられていた。何事もなかったかのように、自動車は道路を走り抜け、歩行者は新しくなったマンホールなどに興味を一切もっていなかった。マンホールを眺めていたのは、僕くらいだった。周りを見渡してみると、おそらく五台のうちの一台であろう監視カメラが目に入った。きっと映像の改ざんなど一切行われていない、まっとうなカメラであるはずだ。僕は毎日毎日、つまらない日常を映し続けるカメラに少し同情した。
呉服町通りを駅側へと進み、葵タワーの前に出た。昨夜、沙希と一緒に座ったベンチは若いカップルが占有していた。昨夜、降り注いだオタマジャクシはほとんど片付けられているようだった。あれほどまで数多くいたはずなのに。近くの排水溝を見てみると、そこには数匹のオタマジャクシが干からびていた。頭だけのものや、尾だけのものもあった。ほとんどのオタマジャクシは排水溝を通して、再び水のなかへと帰っていったのだろう。彼らはどこへ流されていくのか僕はなんとなく気になった。それから、空から降り、地面に衝突して死に、死にたえたあと、水へと流される気持ちはいったいどんなものだろう、と思った。僕はそのような気持ちを抱きながら、河中さんの古書店に向かった。おそらく沙希もいるはずだ、いつもいるのだから。僕が受けるべきだった呪いについて話さなければならない。
古書店の店内に入ると、河中さんと沙希が立ちながら話をしていた。僕に気がついた河中さんが「おはよう」と挨拶をした。すぐに沙希もこちらを振り向いた。僕は、おはよう、と二人に挨拶をした。
沙希は僕の顔を見つめた。何を聞きたいのかは分かる。つまり、呪いのことだ。
「残念ながら、なにも起こらなかった」僕はまさに残念そうな表情を浮かべながら、そう言った。
「ちょっと、こっちに来て」と沙希は言って、フリー・ルームへと入っていった。
僕は彼女に促されるまま、フリー・ルームに入った。
「脱いで」と沙希は言った。
「はあ?」僕は訳が分からず、間の抜けた声を出した。
「だから、脱いで」と沙希は表情を変えずに言った。
「どうしてこんなところで脱がなければいけないんだ」と僕は言った。これは至極まっとうな主張のはずだ。
沙希は、僕の至極まっとうな主張を無視し、何も言わずに僕のTシャツを捲りあげた。僕はあっという間に上半身裸になった。つづいて、僕のベルトをするりと外し、ジーンズのジッパーをずらした。そして、僕の腰に手をあて、勢いよくジーンズをずり下ろした。僕はほんの数秒のうちにボクサーパンツ一枚になっていた。河中さんはそんな様子を笑いながら見ていた。いったいどういうことだ、と僕は思った。沙希は僕の身体を念入りにチェックした。顔をつねってチェックし、胸をぺたぺたと触ってチェックし、腹をつまんでチェックし、太ももを揉んでチェックし、脛を叩いてチェックした。それから僕を回転させて、後頭部を叩いてチェックし、背中をさすってチェックし、腰をつかんでチェックし、ふくらはぎを揉んでチェックした。
「おかしいな」と沙希は呟いた。それは明らかにこちらが言うべき言葉だと思ったが、声に出なかった。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義