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ベイクド・ワールド (上)

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第四章 瞬きをする一瞬、そこから失われていくもの、あるいは、そこから生まれていくもの



 沙希と別れたあと、僕はあいつのアパートに向かった。あいつのアパートは北街道の市民会館通商店街から東側に少し外れた路地のなかにある。典型的な二階建てアパートだ。道路に面して砂利道の簡易駐車場があり、入口は裏手にある。入口へはアパートの中央にあけられたアーチを通り抜ける必要がある。二階に続く階段は左右に設けられ、一階と二階を合わせると八部屋あった。あいつが住んでいたのは一階の西端にある部屋だ。裏手は隣の家の塀が高くそびえて、光を遮っていた。
 僕は駐車場を通り抜け、中央のアーチをくぐり、裏から入口にまわった。バッグから部屋の鍵を取り出し、ドアを開けた。鍵穴は青く錆びてしまっていて、鍵穴が回転しにくかった。鍵を開けて、僕はアパートの中に入った。入ってすぐ右側にキッチンがあり、左側にトイレと浴室がある。その先に五畳半の狭い部屋がある。僕は玄関を上がり、部屋に入った。
 黴のにおいが僕の鼻についた。この部屋の湿度は異様に高く、放っておくとさまざまな物がすぐに黴びた。部屋の直下に水道管が何本も走っているのが原因らしい。室内のなま温かく、湿気を含んだ空気は僕の気分を滅入らせた。僕はベランダに繋がる窓を全開にして換気したあと、エアコンのスイッチを入れ、ドライに設定した。
 僕は黴が生えている場所を探した。天井や壁にぽつぽつと濃緑色をした黴が形成されていた。僕はキッチンに置いてあるアルコール・スプレーを持ってきて、それを拭き掛け、雑巾で拭き取った。そうすると、意外と簡単に黴は取り除くことができた。僕はそんな風に天井と壁の黴をぬぐい取っていった。ベッドの下や、本棚と壁の隙間など、至る所にスプレーを吹きかけてタオルで拭いた。目に見える箇所はすべて奇麗にした。そして、濃緑色の黴はどこにも見当たらなくなった。しかし、目に見えないくらいの大きさで僅かに残った黴は確かにそこには残っていて、湿気を含んだ部屋の空気を栄養源として、再び増殖をはじめるのだ。そうして、気がついたころには目に見えるほどの大きさの集団を形成する。気がついたときにはもうすでに遅いのだ。
 僕はクロゼットを開いた。そこには服は何も掛けられていない。そこには服をかけるためのポールだけがある。クロゼットの中も黴のにおいが充満していた。僕はクロゼットのポールをさすりながら、あいつのことを思った。

 四年前、彼はこの場所で自殺した。僕が十三歳の頃だ。彼は僕が誕生日にプレゼントしたイタリア製の腰ベルトをポールに括りつけて首を吊ったのだ。彼が死んだ姿を見つけたのも僕だった。
 僕にとって彼の存在はとてつもなく強大だった。彼と接すると僕の存在がすべて飲み込まれてしまうかのような、僕の存在意義がすべて奪われてしまうかのような、そんな得体のしれない恐怖を感じた。いや、畏怖といった方が正しいかもしれない。僕はそれを必死に隠そうとしていたが、彼には見透かされているような気がした。そう思うたびに、僕はもう彼とは接することができなくなっていた。僕は彼と目を合わせることどころか、視界に入れることすらできなかった。彼はそんな僕をひどく心配していた。その度に僕は自分の浅はかさに気づかされるような感じがして、絶対的な絶望感にさいなまれた。
 そんな完全な存在である『深瀬徹』という人間が死んだ時、僕は悲しみよりも安堵感が胸を去来したのだ。そんな自分に僕は吐き気がするほどの嫌悪感を抱いた。
 死んだ彼が着ていたジャケットの胸ポケットには封筒が入っていた。封筒の表紙には青のインクで「深瀬亜季ニ宛テル」とだけ書かれていた。僕はその手紙を読むことができなかった。
 思えば、彼と心を開いて話すということがなかった。それは不仲であるというわけではない。彼が僕に対して何を思い、何を感じ、何を考えていたのか、そのようなことがその手紙に書かれているような気がして、その手紙の内容を考えるだけで胸が苦しくなった。僕はその場で手紙を破り捨て、紙くずは近くの用水路に捨てた。
 彼が死んだ日、僕は親にも警察にも報告をせず、死んだ彼の顔をじっと眺めていた。 何を思うでもなく、生を失った彼の存在を僕は見つめていたのだ。あれほどに強大に思えていた彼が小さな存在に思えた。あれだけ畏怖の対象としていた彼が幼い子供のように見えた。
 僕はその日、死体とともに一夜を過ごすこととなった。僕は知らぬうちに眠りに落ちたのである。そして、その眠りは僕にとって最後の眠りだった。その夜を境に僕は眠りという概念を失ったのだ。
 僕にとって最後の眠りのなかで見た夢は僕の記憶のなかにこびりついている。その夢は決して非現実的な夢ではなくて、至極、現実的な夢だった。というよりも、それは過去に実際に経験した現実の内容がそのまま夢になっていた。そして、それは僕と彼の間で、不透明な亀裂が起きたその日を示していた。
 僕が七歳で彼が十四歳だったとき、地区の集まりでキャンプのイベントがあった。グループに分かれて『森のなかを探索していると、徹が行方不明になった』という報告があった。結局、大人たちは日が暮れるまで、あいつを探し続けたが、結局見つからなかった。夜になってしまうと、大人も遭難してしまうほどの暗黒に包まれてしまうし、野犬や熊、猪などの動物が出るから捜索は一旦中止にしてくれ、と施設の人間は言った。だが、次の日、徹は自力でキャンプ場に戻ってきた。どこにも傷一つつけず、どこも汚さずに戻ってきたのだ。憔悴した様子もなかった。保護者達は徹の周りを取り囲み、声をかけていた。『大丈夫?』 『怪我はない?』 『何処に言ってたの?』 『心配したわ』泣いて、喜んでいた。
 徹は保護者達の言葉はまるで聴こえていないかのようだった。何でそんなに騒いでいるのだ、というような様子だった。徹の視線は僕に注がれていた。僕はログハウスの部屋の窓から、徹を見下ろしていた。あちらからこちらを見ることは出来るわけがないのに、徹の視線は確かにこちらに向けられていた。僕はその視線に怖くなり、窓のカーテンをぴしゃりと閉めて、ベッドの毛布にくるまった。
 徹はその事件のあとに接しても普段の徹だった。あの時、感じた違和感はいったい何だったのだろう、と僕は思った。キャンプの遭難の一件のあとも、僕らは普段通りに過ごしていた。
 しかし、そんなふうに過ごしているうちに、知らぬうちに、本当にまったく気づかないうちに、徹のなかの違和感のようなものが大きくなってきていることに気がついた。その理由ははっきりとは分からないが、僕には感じたのだ。おかしいというわけではない。実際、徹は頭も良いし、常識もあった。周りからも優秀で真面目な人間という評価を得ていた。ただ僕は感じたのだ。その瞬間から僕と徹の間で会話が減っていった。徹から僕に話しかけることはあったが、こちらからすぐに会話を切り上げるようにした。
 僕が十三歳になったとき、一人暮らしをしていた徹からメールが届いた。
『亜季、元気か? ちょっと、お願いがあるんだ。これはとっても大切なお願いだ。八月十三日に、朝でも、昼でも、夜でも構わない。俺のアパートに来て欲しい。よろしく頼む』