コトサキク
多分喬だけは。世界中の他でもない喬だけは。あの人を好きになってはいけなかったんだと思う。
なぜなら――彼女は、喬が一目惚れをしたというその相手は。喬自身の親父さんと特別なオトナのおつきあい的なことをしている人だったからだ。
喬のお母さんは病気で年末に亡くなってしまったので、息子が誰を好きになってたかなんて知らなかっただろうし、この先も知るよしもないだろうけれど。
喬は……自分の母親をとても大事にしていた。病気が発覚するよりもずっと前、小さい子供だった時からずっと。
僕とは違って気分で親を傷つけるような、いや、傷つけるための台詞を口にするようなことなんて決してなかった。本当に大事にしていた。
(最後だし告白しようと思ってるんだけどさあ。やっぱだめかなあ。うまくいくとかいかないということじゃなくて倫理的に? 母ちゃん泣いちゃうかな)
二月の日曜日。珍しく喬が僕と実乃里を自分の部屋に呼び出してそう言った。
僕らは相変わらず始終一緒にいたけれど、その割に小さい頃のようにお互いの家を訪ね合うことは少なくなっていた。
それは、家だと昔から知ってる仲なので親がしょっちゅう会話に参加してきて邪魔くさいとかそういう理由もあったけれど、それだけじゃなかった。
それはもっと前、夏休み、冬休み、春休み、誰かの家でお泊まり会を開催していたのが、いつのまにかそれはできなくなった。
僕たちは本当に仲がよくて、ずっと一緒にいたので、一人だけ仲間に入れない状況を作りたくなかったのだ。
とにかく、おばさんの葬儀の日以来久々に遊びに行った喬の部屋で彼の三年に渡る恋心を打ち明けられて正直僕らは戸惑った。
最近はたいてい駅の近くにあるファーストフード店にたむろしていたのだけれど、外でこの告白を聞かなくて良かったと心底思ったものだった。
喬に好きな人ができたというのは、以前からなんとなくぼんやりと知っていた。多分実乃里もそうだろう。
はっきりと教えてもらわなくても、、部活の朝練なんかが喬にあるわけでもないのに雨の日も晴れの日も毎朝一人早く家を出る様子から気がつかないわけがなかった。
僕たちはこれまであまり真面目に恋バナをしたことがなかった。
なので腹を割ってこっちから指摘するのは照れがあったりして、どこのどんな人なのかとかくわしい話を踏み込んで聞くことをせずにいた。
さすがの実乃里も詳細を聞かされたら、どうしていいのかわからなかったようで僕と喬をかわるがわるみつめていた。
通学路の途中のバス停ですれ違うOLさんに一目惚れをした。ここまでなら僕らもごく普通に頑張れと言っただろう。
僕も実乃里と喬をまじまじとみつめた。喬はただ笑っていた。
けれど――僕らが悩む余地なんて最初からないのだ。
割と早い段階で喬本人は、自分が好きになった相手の女性が自分の父親とそういう関係なのだと知ったという。
いろんな意味でショックを受けたが僕らに相談するには家庭事情までからんでくるので、自分の父親のこともよく知っている僕らにはあんまりにも重いだろうと言えなかったのだと。
水くさいことを、とも思うが喬の気持ちもわからないでもない。
そうこうしている間に母親が病んでしまって、どうにもがんじがらめになって動けなかったらしい。
しょうがないな、と僕はその時答えた。実乃里も僕の顔をじっと見ていたが、その言葉にこくりとうなずいた。
父親と相手の人の関係だとか、母親のことだとか知ってからずっと今日までいろんな意味で悩んで悩んで悩みまくったことは、聞かなくてもわかる。
それが僕らの知ってる喬だからだ。
だから――。
僕と実乃里は喬の友達なのだ。おじさんにも、おばさんにもめちゃくちゃ世話になったけれど何よりもまず、喬の友達なのだ。僕も、実乃里も。
これまでも。これからも。ずっと。学校を卒業しても、喬がアメリカに行っても、そのうち実乃里が嫁に行ったとしても、だ。
喬がどうしても彼女が好きで、彼女に気持ちを伝えたいというならば僕らは応援するしかないのだ。
実乃里は並んで歩きながら白い息を吐き出している。
「もっとこう簡単にさあ、実乃里を好きになったとかじゃだめだったわけ」
言ってもしょうがないことを僕はそれでも声にしてしまい、喬がげほげほとむせこみ実乃里がじろっと冷たい一瞥をくれた。
「えーと」
「それならたかちゃんとおーくんでもいいじゃない。応援するよ」
言葉を探して逡巡する喬をさえぎって、恐ろしいことを実乃里が平然と言う。
「いや……ごめん。悪かった」
僕は素直に謝った。
まあそれくらい僕らの間に、長い付き合いながら混じりけなしの友情以外のものが全然存在しなかったということだろう。きっとそうに違いない。
おさななじみが初恋の相手、なんて古今東西よくあるストーリーだというのにな。もしそうなっていたら僕らは何か違っていたのかな?
どうして喬の好きになった相手は、実乃里じゃないんだろう。
どうして彼女は自分より二十歳も年上の、しかも子持ちの男なんかが良かったんだろう。
どうして喬の父親は――――。
もう、わからない。
「そういえば、実乃里は好きなやつとかいないの? これまで全然聞いたことがなかったけど」
この際だからついでに尋ねておこうとでも思ったのか、喬がずばりと質問した。実乃里は嫌そうに顔をあげる。
もののついでに女子に振るには、いささかデリカシーに欠ける話題な気もする。僕としては空気を読んで話を変えるべきなのだろうか。
僕がちょっと迷っている間に、実乃里がとりつくしまもなく短く答えた。
「いない」
「そっか。もったいないなあ。実乃里かわいいのに」
ぬけぬけと真顔で喬が言い切った。
「お前……」
絶対さっきなんかのメーター振り切っただろう。僕が絶句するほど喬はにこやかに笑って実乃里の頭をぽんぽんと叩いている。
僕を感傷的にさせ、喬は照れを振り切る、なんて恐ろしいんだ卒業式ってヤツは。
実乃里は眉間にしわを寄せて喬をにらんだが、けれど文句は言わなかった。口に出したのは別の台詞だった。
「これまで男の子なんか好きになったことがない」
「それはもしかして」
「女の子も好きになったことないけどね」
口を挟もうとした僕を叩き斬るように、冷ややかに先手を打たれた。
いや、別に僕はそういう質問をしようとしたわけじゃなくて。僕らみたいなのがずっとそばにいたから、世の他の男にも幻想をもてなくなったのかとかそういうことなのか聞きたかっただけだ!
「あはは」
喬がおかしそうに笑っている。お前が元凶なのに、気楽なもんだな……。
「まあいろいろあるよね」
「喬、お前な。一言ではなんとも表しがたい空気を作っといて一言でまとめんなよ」
抗議したが、喬は反省の色もなくやっぱり笑っている。
「男の子に、なりたかったなあ」
ぽつりと実乃里が呟いた。
ふんわりとどこかからあたたかな風が吹いてきて、僕の鼻孔をくすぐる。くしゃみが出そうで出なくてすっきりしない。