飛んで火に入る夏の虫
冷静になれ冷静になれと念仏のように頭で唱え、直樹は呼吸を整えながら階段を登った。すると、自分の足を以外の足音が聞こえる。急いで後ろを振り向くと、そこにいたのはやっぱりアイだった。どこに行こうと付いてくる疫病神?
「やっほ〜ダーリン、こんなとこで逢うなんて運命的だね」
「付いてきたんだろ」
「だってダーリンがいないと寂しいんだもん……うるうる」
「もういい好きにしろ」
「わぁーい!」
「だがな、俺はおまえがいないものとして扱うからな」
「ほ〜い!」
笑顔を浮かべたアイはさっそく直樹の腕に抱きつくが、直樹は完全無視。徹底抗戦の構えだった。
物体Aを引きずりながら直樹が自分の部屋に入ろとすると、ちょうどトイレに行こうとしていた遊羅と出くわした。
「あ、さっきのお姉ちゃんだ」
「やっほ〜遊羅ちゃん! 遊羅ちゃんのことはお母さんから聞いてるよ。アタシの名前はアイっていうの、お兄ちゃんのお嫁さんだから、これからは遊羅ちゃんお姉ちゃんになるんだよ」
「お兄ちゃん結婚したの!?」
大きなおめめをパチクリさせる遊羅の顔を見て直樹が驚きの表情を浮かべる。
「どうしたんだ遊羅、独り言なんて言って? 熱でもあるんじゃないか?」
こーゆー攻撃に出た。
不思議な表情をする遊羅はアイの腕を取った。
「このお姉ちゃんと話してたんだよ」
「お姉ちゃんなんかいないじゃないか、幽霊でも見てるんだよ……ぐっ!」
直樹の膝にアイの蹴りが炸裂する。でも、我慢我慢。爽やかな笑顔で直樹は物体Aを引きずり、遊羅から逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。
部屋に入った直樹はアイを怒鳴りつけてやろうとしたが、ぐっとその心を忘却の彼方へ仕舞い込んで無視を続ける。
直樹の部屋は床が畳で、家具は本棚と勉強机。あとは押し入れにいろんなものが入っていたりする。例えるならば、の○太くんの部屋風。
畳の上に寝転んだ直樹はゆっくりと目をつぶる。安らかな時が直樹に訪れる。ふかふかの枕と優しく撫でられる頭。枕……撫でられる……?
目を開けると直樹の頭はいつの間にかアイによって膝枕されていた。
「ダーリン動かないで、ゆっくり寝てていいから、ね?」
優しい笑みを浮かべるその表情は悪魔というより聖母だった。その笑みにドキッとしてしまった直樹だが、無視すると決めたので無視を続けて眠る。
暖かな体温が直樹の身体に伝わってくる。妙な気分になってきた直樹の心臓はドキドキだった。もしかして、悪魔の誘惑に負けたのか直樹!?
窓から吹き込む風とともに微かな声が直樹の耳元に届く。
「ダーリンのこと本当に好きだよ。ひと目見た時にこの人しかいないと思ったの……だから、ダーリンと契約したの。ダーリンが望めば身も心もダーリンのもの。あと、ドラ焼き一〇〇個はいつでもいいから」
やっぱりドラ焼きあげなきゃいけないのかよ、と心の中でツッコミを入れながらも直樹は口をつむぎ続けた。
「マジで惚れちゃったみたいなんだアタシ。でもね、いいんだよ今は振り向いてもらえなくても、いつか絶対アタシのこと好きになってもらうから、それまで頑張って尽くすから……ダーリン好きだよ」
頭のカーッと熱くなってきた直樹は眠るどころじゃなかった。きっと、この体温の上昇はアイの膝に伝わってバレバレかもしれない、そう考えるとよけいに身体が火照ってくる。それでも直樹はその場を動かず寝たフリを続けた。
――しばらく鼓動だけが響く静かな時間が続き、夕飯時になって直樹が下の部屋に行くと、なぜか料理が一人前多かった。ツッコミを入れようとした直樹だが、ここは敢えて何も言わずやり過ごす。
直樹の父は帰りがいつも遅いので、いつも夕食は三人でとる。はずなのに、なぜか今日は会話がいつも以上に盛り上がる。
なるべく会話に参加しないように、会話を聞かないようにして食事を済ませた直樹はさっさとお風呂に入る。後ろから忍び寄る足音。風呂までついて来るのかよ!
平常心を保つ直樹は服を脱いでお風呂に入る。ただ、いつもと違って腰にはタオルを巻いている。
お風呂場では誰かに背中を流されたような気がするけど、きっと幽霊。
その後もトイレにまで誰かがついて来たような気がしたけど、きっと変質者。
夜も更けてふとんを敷いて直樹が寝ようとすると、ふとんの中に何者かが入ってきたような気がした。ここでついに直樹は負けた。
「頼むから、俺が悪かったから、寝る時ぐらいは一人にしてくれ」
「やっとダーリン口聞いてくれた」
「おまえがいると絶対寝れないから、頼む」
「ダーリンがそこまで言うならアタシは別のところで寝るね。じゃあね、ダーリン」
やっと直樹のもとを離れてくれたアイ、と思ったらアイの足がふと止まって振り向く。
「おやすみのチューは?」
「あるかそんなの!」
「じゃあ、アタシから投げキッス、チュ」
嬉しそうな顔をしたアイは部屋を出て行った。
やっとひとりになれた直樹はゆっくりと眠ろうとしたが眠れない。アイがいなくなっても頭が悶々として眠れない。膝枕やお風呂場にトイレと、いろんな記憶が走馬灯のように思い出され、眠れるわけがなかった。
「あーっ!」
頭を両手で掻き乱す直樹。
一目惚れも一種の魔法だよね。そう、世の中にはそんな素敵な魔法がいっぱいなんだ。
ま、まさか直樹……!?
この後、直樹が眠りにつけたのはニワトリさんが鳴いた頃だったとさ。
作品名:飛んで火に入る夏の虫 作家名:秋月あきら(秋月瑛)