飛んで火に入る夏の虫
無邪気に笑うアイに対して、直樹は俯き加減で拳を握り締めていた。
「……もういい」
「怒らないでダーリン!」
アイは両手を広げて直樹に抱きついた。小さくとも確かにそこにある胸が直樹の身体に当てっていい感じだが、今の直樹にはそんなことはどーでもよかった。
「俺はな……怒ってんだ、俺んちから出てけ!」
直樹に大きく振り払われたアイは壮大なまでにズッコケて床に尻餅をついた。スカートの隙間から白いコットン素材が顔を覗かせているが、今の直樹にはそんなことはどーでもよかった。
「早く出ててよ!」
「出てけ、出てけってアタシたち夫婦なんだから、一緒にいるのが当たり前でしょ?」
「知るかそんなこと」
「……ふふふ、そっちがその気ならこっちにも考えがあるも〜ん」
禍々しい鬼気を放つアイの手には契約書が掲げられていた。
若干振るえ後退りをする直樹の顔は蒼ざめていた。目をつぶると生々しい記憶が蘇ってくる。もう二度と長くてヌメヌメしたあの物体で、あ〜んなことや、こ〜んなことをされてなるものか。
直樹は秘策を練った。
「俺が悪かった、悪かった、悪かった、悪かった……」
「じゃあ一緒に暮らしてくれる?」
「いや、それは、それは、それは……」
直樹は一言しゃべるごとに足を一歩後ろに下げていた。その足が向かう方向は台所の勝手口。そう、直樹は逃げようとしていたのだ。
「おまえが出てかないなら、俺がこの場から逃げてやる!」
捨て台詞を吐いた直樹は勝手口を素早く開け、目にも止まらぬ速さでサンダルに履き替えて家の外へ逃走した。
しまった、という表情をしたアイすぐさま直樹の背中を追った。
「待ってダーリン!」
勝手口を出ようとしたアイの足がふと止まる。
「あーっ! 靴、靴、靴忘れてた」
アイはカップラーメンの中に手を突っ込んで靴を取り出すと、すぐにその場で靴に履き替えて外に出た。
再びしまった、という表情をするアイ。
「靴に履き替えてたら完全に見失っちゃったじゃない!」
道路に出たアイは右見て、左見て、ついでに回って上も見る。
無表情のままアイは言葉を吐き捨てる。
「……ダーリンのアホ」
「あはは、こんなところで会うなんて奇遇だねぇ」
直樹は電信柱の上にいた。しかも爽やか笑顔。見る人が見れば木登り好きな少年で済ませてくれるかも。いや、やっぱりただの変人。
激しく作戦ミス!
電柱の上に登って相手をやり過ごそうと直樹発案のナイスなアイデアには弱点があった。――逃げ場がないジャン……みたいな。
電柱を登りはじめるアイの表情はニッコリ笑顔だった。それが異常なまでに怖い。
「ダーリン、逃げ場はもうないわよ、観念してお縄につきなさい!」
「ヤダ」
「どうしてよ、こんなに可愛い娘が妻になってあげるって言ってるのに」
「おまえが可愛いのは認める。だけどな、人間じゃないだろおまえ」
「ヒドイ、ヒドイわ、そうやって人種差別する気なのね……ぐすん」
アイの手が直樹の足首を掴む。その力は異常なまでに強く、骨がボキボキに砕かれてしまいそうだった。
「痛い痛い痛い……放せ、放せ、むしろ話せばわかる!」
「逃げないって約束してくれたら放してあげる」
「その答えを出すには時間と休息が必要だ。今はとりあえず手を放せ」
「……拷問」
アイの手によりいっそう力が入り直樹の足は壊死寸前。
「イターっ! わかった、わかったから、逃げないから放せ!」
「本当?」
「う……そ、それは、う……そ〜だなぁ」
「微妙にウソって言ってない?」
「そんなこと口が裂けても言えるわけないだろ」
これは本当だった。ウソとは口が裂けても?直接?言えない。
電柱で追い詰められている直樹とご近所さんとの視線が合ってしまった。ちょっぴり恥ずかしい。とりあえずこんな時は、爽やか笑顔で手を振っておきましょう。
呆然と直樹とアイを見つめるご近所さんの女性が自転車に跨りながら一言。
「そんなところで何やってんの直樹?」
直樹に声をかけたのはご近所さんの中のご近所さん、直樹の隣の家に住んでいる直樹と腐れ縁の幼馴染――佐藤美咲だった。
部活帰りのバスケットボールを腰に抱える美咲に直樹は助け舟を出す。
「助けてくれ、この女の子を追い払ってくれ、一生のお願いだ!」
「今朝も直樹の一生のお願い叶えたような気がするけど?」
美咲の表情は明らかに冷めていた。直樹がトラブルを起こすの毎度のことで、美咲はほとほと呆れ返っていた。だから、今の美咲に助ける意思はない。
何も言わず立ち去ろうとする美咲の背中を見ながらアイが直樹に質問する。
「誰あの人?」
「幼馴染の佐藤美咲、恋人できない症候群という不治の病にかかってる」
美咲の足がぴたっと止まる。そこにアイの言葉が降りかかる。
「まさか恋のライバル出現! 愛に飢えた女がアタシの大事なダーリンを寝取ろうとしているのね!」
止まっていた美咲の足がターンする。
「腐れ直樹、そんな病気あるわけないでしょ! それに何そこの女、わたしが愛に飢えてるってどういうことよ、もし本当に愛に飢えてたって直樹なんてお断りよ!」
息の上がった美咲は顔を真っ赤にして肩で息をしていた。それを見たアイの一撃が炸裂する。
「そんなにムキになって……まさか、まさか、まさくぅあ! やっぱり直樹をアタシから奪うつもりなのね!」
「違うわよ、大声出したから息が上がっただけよ!」
「そうやってムキに否定するところが怪しい……」
「もしかしてわたしに喧嘩売ってるの? だったら買うわよ、パンチラ女!」
美咲の指差すその先にはスカートから覗くクマさんが微笑んでいた。
慌てて片手でスカートを押さえるアイ。これでやっと直樹の足首は解放された。
いろんな意味で顔を真っ赤にするアイは報復手段を考えたが、今の彼女は手も足も出ない。片手はスカートを押さえ、もう一方を離すと地上にまっ逆さまで、登ることも降りることもできない状態なのだ。まさに、アイちゃんピンチ!
たじろぐアイの上から声がした。
「喧嘩なら下に降りてからやれ」
「降りたくても降りれないの!」
「なんで?」
「だってスカート押さえてないとパンツ見えちゃうでしょ!」
この言葉を聞いた美咲の瞳が輝く。
「そうなんだ、降りて来れれないんだ、ふ〜ん。じゃあ、今のうちの攻撃しちゃお」
バスケットボールを持った美咲がシュートの構えをする。次の瞬間、華麗なシュートが決まる。
上空に投げられたボールは一直線にアイに向かってゴール!
ゴン!
「痛いじゃないのよ……あっ!?」
怒ったアイの両手は上空にあった。つまり離した……ってことは!?
「わぁ〜っ!」
声を上げた時にはすでにアイはコンクリート地面に向かって死のダイブ。
ヤバイという表情をした直樹と美咲。
物体Aが固いコンクリートに衝突し、明らかにヤバそうな鈍い音が住宅街に響き渡った。
身動き一つしないアイ。焦る直樹は急いで電柱から降りて、もっと焦る美咲がすぐさまアイに駆け寄る。
「もしかして殺しちゃった!? 違うの違うのよ、不可抗力よ」
「コイツ死んだか?」
直樹は近くにあった小枝でアイの身体をツンツンする。するとすぐに反応があった。
作品名:飛んで火に入る夏の虫 作家名:秋月あきら(秋月瑛)