飛んで火に入る夏の虫
出されたドラ焼きを丸い瞳で見つめるアイ。どうやらアイはドラ焼きを知らないらしい。
「ドラ焼きを知らんのか。かの有名な未来から来たロボットも大好物のドラ焼きを知らんやつがいるとは世も末だな」
「美味しいの?」
「うまい」
「じゃあ食べてみよ〜っと」
ドラ焼きを手にとってパクッ。その瞬間、口の中に広がる香ばしくも甘い香り。粒餡がまさにつぶつぶな食感を演出してくれちゃったりして、なんとも美味ではありませんか!?
「美味しいぃ〜! もっとないの?」
「ない」
「えぇ〜っ、こんな美味しいもの一つで満足できないよ……あっ!」
ビビッとアイの脳裏に画期的で斬新でナイスなアイデア浮かんだ。少なくともアイ自身はそう思った。
どっからか契約書を取り出したアイは、またまたそれを直樹の鼻先に突きつけた。
「ドラ焼き一〇〇個でアンタを世界の覇者にしてあげる。そーゆーわけで――汝、我と契約されたし!」
「世界の覇者……マジで?」
怪しすぎ。ドラ焼き一〇〇個で世界の覇者になれるなら、この世界には覇者が何人いることやら?
「マジマジ、カミサマに誓ってマジ」
「神って悪魔だろおまえ」
「じゃあ、悪の大魔王サマに誓ってマジってことで。なんだったら、仏様にも誓とこっか?」
「信用度ゼロだぞおまえ」
と口ぶりでは全く信じてないようすの直樹だが、彼の頭の中では今現在壮絶な戦いが繰り広げられちゃってる真っ最中だった。
直樹の善の心を司る天使ちゃんいわく、『悪魔なんかと契約しちゃだめだよば〜か!』。
直樹の悪の心を司る悪魔ちゃんいわく、『バカって言った方がバカなんだよば〜か!』。
低脳な子供っぽいの戦いは決着がつくことはなさそうだ。そこで仕方なく直樹は自ら決断を下した。果たして直樹の決断とは!?
「ドラ焼き一〇〇個くらいでいいなら契約してやる。世界の覇者にしてくれるってのはウソじゃないだろうな?」
「おうよ、任せときらがれコンチキショー!」
「投げやりっぽく聞こえたが、それには目をつぶって契約してやる」
「えっ、本当!? チョ〜うれしぃ〜!」
無邪気に笑うアイはどこからか契約書を取り出し、またまたまたそれを直樹の鼻先に突きつけた。だが、やっぱりヘブライ文字なので読めない。
「だから、読めないって」
「読めなくてもいいから、ここにサイン。自分の血でちゃんと署名するんだよ」
契約書をバシンとテーブルの上に置いて、アイは契約書の下の方を指差した。しかも、なぜかもう一方の手には包丁が握られていて、その包丁は見た直樹は思わず声をあげる。
「なんだよその包丁は!?」
「契約には血が必要だから、これでグサッとね……エヘッ」
包丁を構え無邪気に笑う姿が怖すぎる。
「エヘッじゃないだろ、殺すきか!?」
「ちっ……世話の焼けるやつだ。ほい、ボールペン」
「ボールペンでもいいのかよ……だったら最初からそう言えよ」
「これは契約だから証拠さえあればいいの、商品の受け渡しの儀式はまた別」
ボールペンを受け取った直樹は何の疑いもなく自分の名前を書いて、契約書をアイに渡した。
「書いたぞ」
「人間、汝、名を何と申す?」
「ここに書いてあるだろ、漢字も読めないのか?」
「読めない……じゃなくって、アンタが自分で名前をいうことが重要なの!」
「真央直樹だよ……ったく」
お茶を一口飲んで一息入れる直樹の横顔にアイが声をかける。
「こっち向いて!」
「なに……うぐっ!?」
唇に伝わる柔らかな感触。重なり合う唇と唇に驚いて直樹は目を大きく開けた。瞳孔開きまくり。
しばらくして直樹の口からアイの顔が離れていくが、直樹は自体を把握するのに時間を要した。ネバーエンディングに脳みそ駆け巡る状態。
「……キスしたな、キスだな、キス、キス、俺のファーストを奪いやがったなぁ〜っ!」
「別に減るもんじゃないでしょ、お子様」
「精神的に減るんだよ!」
ファーストキスは蕩けるように甘かった……ドラ焼き味かよ!
精神的にハートを抉られた直樹は意外なまでにショックを受けて、台所の片隅でゴキブリのようにドス暗い雰囲気を撒き散らしながらうずくまり、フローリングの床に涙でねずみの絵を描いた。
直樹の肩に柔らかな手がそっと優しく乗せられた。
「落ち込まないでダーリン」
優しい声の持ち主に顔を向けた直樹は『はぁ?』という素っ頓狂な表情をしていた。
「今なんて言った?」
「落ち込むなば〜か」
「……じゃなくて、『ダーリン』って言わなかったか?」
「直樹はウチのダーリンだっちゃ」
アイの言葉に直樹の脳はフリーズ。
――強制終了。
――再起動。
「はぁ〜っ!?」
部屋を飛び越えて、庭を飛び越えて、ご近所さんに響き渡る直樹の声。
また×4、直樹の鼻先に突きつけられる契約書。
「読めねえよ……って、まさか!?」
「アタシを生涯の伴侶にするって契約書にサインしたでしょ?」
「キサマ、俺のことを世界の覇王にするとか言って騙しやがったな!」
「別に騙してないよ。アタシが世界征服に成功した暁には夫であるダーリンは自動的に世界の覇者……そしてアタシの覇者でも……イヤン」
アイは人差し指で直樹のわき腹をグリグリした。思わず直樹は脇を軸にして仰け反る。
「あうっ……じゃなくって、契約解消だ、日本の制度に従ってクーリングオフを適用するぞ!」
「控え居ろう、この契約書が目に入らぬか!」
悪魔の契約書を直樹に叩きつけるアイ。
どんよりとジメジメ空気が部屋に充満し、息をするのも苦しいほどだ。
アイの持つ契約書が風もないのに激しく揺れる。
直樹は本能的に脅え、壁に背中をつけてぶるぶる震えた。
「ダーリン、逃げても無駄だよ……あはは」
まさにアイが悪魔の笑みを浮かべた瞬間、直樹は契約書から出てきた黒い影を見た。しかし、そこで記憶がプッツリ。
「ギャァァァーッ!」
――あ〜んなことや、こ〜んなことが行われているため、描写を控えることをご了承ください(ペコリ←頭を下げる音)。
「ウギャァァァーッ!」
放心状態から立ち直ってきた直樹は、ふらふらする頭を抱えながら思考を巡らせた。
全ては夢か幻か……カップラーメンから悪魔が出てくるわけがないじゃないか……。
「……って現実にいるし!」
「やっほー!」
仔悪魔アイはテーブルに着いてお茶をすすっていた。寛ぎモード全快。まさに、ここはアタシの家ですよ状態。
全ては現実だったのだ。
「何でまだいるんだよ!」
「だってウチら夫婦だし」
「認めないし」
「う、うそ……」
目頭に手を当てるアイの口から微かに漏れる嗚咽と鼻をすする音。
涙をいっぱい流しながらアイは直樹に顔を向けた。思わず直樹はたじろぐ。いつの時代も男は女性の涙に弱い。だが、直樹の気持ちは次の一言で変わる。
「このキスはお遊びだったのね……ひどいわ、ぐすん」
「……おまえからして来たんだろうが!」
「いつもそうやってあなたは言い訳するのよ、ぐすん」
「いつもっていつだよ、さっき会ったばっかりだろ!」
「自分に不都合なことがあるといつもそうやって怒鳴るのよ、ぐすん」
「いい加減にしろよ……」
「じゃ、離婚間際の夫婦ごっこはおしまい。次は熱々新婚家庭ごっこにしようか?」
作品名:飛んで火に入る夏の虫 作家名:秋月あきら(秋月瑛)